踊りのラベル
ベリーダンスは、一言で言い表せないほど
多様なジャンルに分かれている。
そして同じジャンルの中でさえ、
踊る人によって表現も個性もまったく異なる。
それほどまでに、自由で、豊かなダンスだと思う。
バレエの世界で適性が無く、長年苦しい思いをしてきた私は、
ベリーダンスに初めて出会った時、
その多様性と懐の深さに深く感銘を受け、
そして同時に救われた気持ちになったのを今でも強く覚えている。
だが一方で、よく耳にする言葉がある。
「それはベリーダンスではないのではないか?」
他者の踊りを、ベリーダンスという枠から外すような指摘だ。
そのたびに、私は考えてしまう。
以前、著名な先生が
「トライバルフュージョンはベリーダンスではない」
と言っていたのを思い出す。
だが、トライバルを踊るダンサーにとっては、
それもまたベリーダンスという
大きなカテゴリーの一部なのではないだろうか。
また、ジプシーダンスはロマの人々が
生活の中で踊り継いできた文化であり、
厳密に言えば「ベリーダンス」とは別のカテゴリーに属するのかもしれない。
それでもなお、大きなファミリーとして、
ジプシーダンスもジャンルとして存在している。
それをベリーダンスに含めることも、決して不自然ではないと私は思う。
もし「純粋にエジプトで踊り継がれてきたものだけ」
をベリーダンスと呼ぶのだとしたら、
現在のロシアやウクライナで発展したスタイルはどうなるのだろう。
トライバルフュージョンやジプシーダンス、
その他の多くのスタイルも、
すべてベリーダンスではないということになってしまう。
もちろん、自分たちのジャンルこそが
正統であると考えることは、ある意味で自然なことなのだと思う。
それぞれが、自分のルーツや美学を大切にしている証でもあるからだ。
それでも、私にとってベリーダンスの魅力は、
その多様性と懐の深さにあった。
だからこそ、「これはベリーダンスではない」という言葉は、
どこか少し、寂しさを伴って響く。
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私自身、「ベリーダンスじゃない」と、これまで何度も言われてきた。
そして今も、きっとこれからも言われるのだと思う。
けれど、それは私にとって否定ではない。
そう言われたとき、
私はいつも素直に「そうですね」と答える。
なぜなら、自分のことをベリーダンサーだと思っていないからだ。
私はただ、音楽を身体で表現したい人であり、
自分をただの一人の踊り手だと思っている。
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だが、インストラクターという立場にいる以上、
「ベリーダンスです」と言わざるを得ない場面も多く存在する。
イベントへのエントリー、生徒への説明、スクールの案内や宣伝。
「ジャンルは何ですか」と問われたとき、
分かりやすさという意味でも、
ベリーダンスと答えるのが最も適切だからだ。
その言葉に、嘘はない。
けれど、それだけでは足りないとも感じている。
だから私は、体験に来てくださった方や、
イベント関係者の方と直接お話しする機会があるときには、
できる限り丁寧に説明するようにしている。
バレエをベースに、
ウクライナのスタイルを取り入れたベリーダンスであること。
そして、それは純粋なエジプトのベリーダンスとは異なるものであること。
その一言を、必ず添えるようにしている。
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名前やジャンルは、
ただのラベルのようなものだと、私は常々思っている。
ベリーダンスであっても、バレエであっても、
私はそのどちらにも完全には属さない。
ただの一人のダンサーだ。
自分のことを、どこか蝙蝠のような存在だとも感じている。
鳥のようでもあり、獣のようでもある。
どちらともつかない、曖昧な存在。
きっと、そんな在り方そのものが、私の踊りなのだと思う。
私のアイデンティティは、
エジプト由来の純粋なベリーダンスではない。
それでも、この美しいダンスそのものと、
このダンスを生み出したエジプトの長く荘厳な歴史、
素晴らしい文化には深い興味があり、
心からのリスペクトを抱いている。
ただ、私が学びたいのは、
純粋なエジプトの踊りそのものではない。
私が惹かれているのは、
今学び続けているダリナのスタイルだ。
それは、私のバックグラウンドがバレエであること、
そして私の持つ表現のツールが、
彼女のダンスに強い共鳴を覚えるから。
何より、私が表現したい音楽やドラマが、
彼女の世界とどこか重なっているからだと思う。
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だから、「それはベリーダンスではない」
と一刀両断されたとしても、
それが私にとっての表現のツールである以上
仕方のない事だし、何も揺らぐことはない。
私は胸を張って、こう答える。
「そうです。私はベリーダンサーではありません。
そして、私の踊っているものは、
ベリーダンスではないのかもしれません」と。
それで構わないと思っている。
私はただの一人のダンサーであり、
ただ音楽を通して、自分の心や、音楽の中にある感情、
そして歌詞に宿るドラマを、見る人に伝えたいだけなのだ。
踊りのテクニックは、
あくまでツールであり、言語に過ぎない。
どの言語を使ったとしても、
それが「伝えるための手段」であることに変わりはない。
そんな想いで、
私は今日も踊り、
そして練習を続けている。