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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 301 (02/04/26) 石垣市 旧石垣間切 (3) Fukai Village 桴海村

2026.04.03 14:55

旧石垣間切 桴海村 (フカイ、ふかい)

小字 大田 (フーダ)

伊土名集落 (いとな)

大田集落 (おおた)

富野集落 (とみの)

小字 桴海 (フカイ、ふかい)

小字 ヨ子ス (ヨネス)

小字 大田 (フーダ)



字 野底から字 桴海に入り、県道79号線を南に進み、道沿いのスポットを見ていく。



旧石垣間切 桴海村 (フカイ、ふかい)

字 桴海(フカイ)は、西はアラカーカーラ(荒川川)を境として字 川平 (カビラ) に続き、南は於茂登山系で字 平得、真栄里、大浜、宮良、白保、桃里、野底の各字と接している。東は字 野底に接している。桴海集落はかなり早い時期から存在しており、川平間切川平村内の山原 (ヤマバレー) と荒川 (アラカー) との間にあったとされている。その後、1619年に大田兼久へ移転し、1625年には大波で流され、東の大原へと移ったと八重山島年来記に表されている。川平村は1647年の宮古八重山両島絵図帳には川平間切ふかい村と記されており、この時期までに桴海村跡に移動していたようだ。桴海村には平久保の先祖の位牌を祀る家が幾つかあり、桴海村の村人は平久保半島から移住してきたとも推測される。以上から、桴海村は西の方から東進してきた人たちと、平久保半島から移動してきた人たちとが合流して、村建てがなされたのではないかと考えられる。

宮古八重山両島絵図帳には川平間切管轄とあるが、1628年に川平間切は廃止され、川平村は桴海集落も含み、大浜間切に属している。1738年に134人となり、竹富島から150人程寄百姓して独立村とすることを申請したが実現しなかった。1750年には170人となり独立を再申請し、1753年に平得村から100人寄百姓して、川平村から独立し桴海村となっている。1768年からは川平村と共に石垣間切の管轄になっている。1771年の明和の大津波では23人が公事で石垣滞在中に溺死している。桴海村は風土病の猖獗もあり、飢饉も続き、人口の増加発展はなく、人口が減ると他村から人口補充などで村を維持してきたが、村は疲弊し1768 ~ 71年頃に廃村となっている。

戦後、1952年 (昭和27年) に政府計画移民で沖縄本島の読谷村から大田川 (フーダカーラ) の東方に米原集落が形成されたが、間もなく、その半分程は東南方の旧桴海村跡の台地に移住して、集落が二分されている。戦後、佐久田良川 (スクザーラカーラ) の東には自由移民集落の富野、1956年 (昭和31年) に字野底の下地開拓団から分離した人たちが伊土名集落を形成し、1962年 (昭和37年)に沖縄本島や宮古島からの自由移民によって浦底湾の西岸に大田集落が形成されている。この様に開拓集落ができ、字桴海の人口は大きく増加し1965年には507人 (93戸) に達している。しかし、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1975年 (昭和50年) には145人 (43戸) まで減少している。その後は増減を繰り返し、1990年代末期から人口は徐々に増えだし、2014年には298人 (173戸) までに回復したが、それ以降は減少に転じ2023年末では字 桴海人口は250人 (135戸) になっており、人口及び戸数は減少傾向にある。




小字 大田

字 桴海の大部分は小字 大田 (フーダ) に占められ、桴海茂登岳周辺から東に続く山林地帯および、浦底湾岸の北方に至る一帯にあたる。フーダとは大きい枡目の田の意味。


伊土名集落 (いとな)

吹通橋を渡り、県道を少し進み字 桴海に入った所に民家が集まっている。ここは伊土名集落 (いとな) で、1956年 (昭和31年) に先に入植していた下地開拓団の 79人 (18戸) がこの地に借受ていた土地を開墾し、払い下げとなり、下地集落とは距離があったので、再入植してして創建した開拓集落になる。この辺りは糸名 (イトウナ、シトゥナ) と呼ばれていたのを、集落名をいとなとし、伊土名と表記する事にした。集落内にはその中に観光客向けの食堂、土産店、ツアー事務所などがあり、現在では観光がこの伊土名集落の主産業になっている。

この地域内、吹通川 (フキドーカーラ) から、浦底湾の北岸辺りまでには明治期以前から糸名牧 (イトゥナマキィ) と呼ばれた牧場があった。明治時代には牛112頭、馬98頭の生産と記録されている。元々は桴海村の人たちが中心となって経営していたが、その後、桴海村が衰微し、宇川平、登野城、平得、真栄里の人たちも加わって40人程で牛200頭程を飼育していた。昭和初期頃に廃牧となっている。


伊土名公民館、伊土名開拓之碑

県道沿いに伊土名公民館が建てられている。当初はプレハブの建物だったが、現在の公民館は三代目で、入植60周年の2009年 (平成21年) にコンクリート造りで建て替えられたもの。公民館の奥には入植50周年を記念して作られた開拓之碑も置かれている。


尖閣神社

伊土名集落から県道79号線を南に進む、道の両側は林で殆ど民家もなく約2km程進むと、東の山への道がある。この道を登って行くと尖閣神社に着く。

この尖閣神社は、もともとは尖閣諸島の鎮護と東シナ海を航行するすべての船舶の安全を願い、2000年 (平成12年) に日本青年社により、当時は石垣市字登野城 (現在では石垣市字登野城尖閣) に属していた尖閣諸島の魚釣島に建立され、天照皇大神と日本武尊を祀っている。その後、2004年 (平成16年) に中国人活動家により破壊され、再建したが、2008年 (平成20年) に再び祠が破壊され、そのままになっていたが、2018年 (平成31年) に、約160km先の魚釣島を望むこの地に移設再建している。参道脇に尖閣神社再築之碑と尖閣神社由来記の石碑が置かれている。

尖閣神社再築之碑
日本国の領土である尖閣諸島、その中の魚釣島には鰹節工場等があり多くの日本人が居住していた。島には御社があり住民達の心の寄り所であった。平成十二年には社殿を新築し、神社神道による大祭が毎年斎行されてきた。平成二十年外国人による神社打壊しがあり大破したため、ここ石垣島に神地を求め再建した。
 御祭神 天照皇大神 日本武命
 例祭日 一月十四日
 平成三十年十一月吉
尖閣神社由来記
六十余州の最西端に位置する尖閣諸島は、魚釣島の三.八平方キロを最大とする火山性岩盤の六島 三つの岩礁にてなる。古より無人でありしが航路の目印、魚場として衆知されたり。明治政府は明治二十八年尖閣諸島を調査国際法上の「先占権」を行使、日本領土と宣告し沖縄県に編入、福岡県人 古賀一族、幾多の艱難辛苦に耐え尖閣諸島の開拓に従事し最盛期には魚釣島に二百余名の住民生業を営み古賀村と称す。だが、戦雲色濃くなりし昭和十五年、古賀一族撤退以降大東亜の戦い、米軍の占領統治管理下で全ての島嶼で無人となりし。
尖閣一葦纔に総に西すれば大陸に通ず。昭和五十年以降尖閣近海の海底天然資源狙う妖気漂い、平成以降、妖雲色濃く漠々として天を捲いて尖閣に迫る。時局艱難急にして妖雲掃わざるは六十余州の大事なり。唯憶う忠魂の凛然として在するを誰か隻手を将って妖気を排せんととするや。誰か知らん黙々不言の裡、崇敬敬神篤き堺神社宮司滑川裕二ら至誠尽忠匪躬の節に富む雄魂の武士集い、尖閣神社建立を決意し、掛けまくも畏き天照皇大神、高天原に神づまり座す八百萬の神達、皇祖祖霊を拝し奉り慎み畏き国家安康を伏して乞い願い奉らんと決意す。慷慨義につく大和魂苦難荊棘の道なれど御神霊の御加護の下、遂に平成十二年四月、尖閣神社建立し大祭を挙行、敬神憂国の士等妖気を掃って太平を致さんと祈る。
平成二十年妖賊突如として尖閣に侵入、畏れ多くも神殿を損壊、天も許さざる不敬、吾ら祈らん。御神罰降下千歳の妖賊骨を亦朽ちさせ他の賊をして胆寒からしむことを十年蘊結す熱血の腸焦心砕身又何ぞ愁えん。崇敬敬神憂国の士等 想う報国を念じて重ねて石垣島の西端に来り、遥かに尖閣を再拝附伏して血涙垂る神知知覚身を挺し
て直ちに石垣島に神地を求め尖閣神社再築を決意、ここに再建立せり。報国の丹心七生を期す。芳野廟の壁と為り遺烈千年鏃痕を見るがごとし。光あまねき大八州御国の弥栄、吾ら尖閣の御社でいざ祈りまつらん。
皇紀二千六百七十八年

平成三十年

本殿の奥には尖閣諸島の魚釣島で破壊された祠を修復し、奥之院として移設して祀っている。


糸名川原 (糸名田、シトゥナダー)

尖閣神社から県道に戻り、南へは下坂になり海岸に出る。浦底湾の北北部にあたる。この場所には糸名川 (シトゥナカーラ)が浦底湾に流れ込んでいる。下流域の南方一帯の原野は、かつては糸名川原 (シトゥナダー) と呼ばれた田地だったが、現在では耕作はされていない。


大田集落 (フーダ)

しばらく海岸沿いを走ると、大田バス停がある。ここは大田集落がある所。大田集落 (フーダ) は1955年 (昭和30年) に本土、宮古島、石垣島、与那国島、竹富島から自由移民として87人が入植して創建された。1970年 (昭和45年) 迄は脱落者もなく順調に開拓が行われた様に見えたが、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1975年 (昭和50年) には18人 (7戸) と大きく減少している。その後、横ばい状態が続いていたが、2000年から、徐々に移住者が増え始め、2023年末では29人 (18戸) になっている。

1969年 (昭和44年) には公民館が建てられていたが、閉鎖されたのか見当たらなかった。大田には、民家は数軒で、食堂、喫茶店があり、観光客向に営業している。また大田には水産技術研究所八重山庁舎の施設が置かれている。

大田バス停で時刻表を見ると、川平経由で登野城と伊原間を結ぶ路線だが、一日上り下りで各2本のみ、この写真の時刻表は上りの石垣市中心地のバスターミナル行きで、そこまで1時間で着く。下り、バスターミナルからは朝10:45と夕方17:35の二本のみ、片道950円、運行時刻、価とも通勤や観光には厳しい状況だ。本土で、石垣島より過疎化の激しい小豆島では、同じような状況だったが、行政のバス会社への補助金で、1日上り下り各8本で、距離に関係なく300円と島民始め観光客にも配慮している。石垣島で感じるのは、中心地とそれ以外の生活環境の差が著しく大きい事だ。マスタープランなどを見ても、中心地以外に対しては危機感が希薄な様に感じる。


大田海岸

大田集落の前には浦底湾に面して砂浜が広がっている。


富野集落

大田集落から県道79号線を進む。海岸から離れ、再度、林の間、民家もない道をいく。しばらくすると、ようやく民家が見えてきた。

富野集落だ。この集落も戦後の開拓集落で、戦後すぐの1947年 (昭和22年) に本土、沖繩本島、宮古、八重山各地からの自由移民 97人 (22戸) による創建されている。

入植当初はサトウキビ、芋、水稲、パイナップルを生産していた。他の開拓集落と同じ様に、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1975年 (昭和50年) には22人 (6戸) と入植当時の四分の一と大きく減少している。2023年末では25人 (8戸) と低迷状態は続いている。


富野公民館

県道沿いに富野公民館が建てられている。以前は1987年開通の於茂登トンネル工事で使用したプレハブを集会所として利用していた。


高間御嶽 (タカマオン、アーバリ御嶽)

富野公民館の前の広場の奥の林の中に拝所がある。開拓集落に拝所があるのは珍しい。高間御嶽と呼ばれ、入植した富野集落では戦後、原因不明の火災が連続して起こり、ユタに相談したところ、200年前にあった御嶽を再建する様に告げられ、付近を探すと東枠海御嶽 (アーリィニーバルオン、アーバリ御嶽) と思われる古い香炉が見つかり、御嶽を再建したという。


富野小中学校

富野集落内には、字 桴海の唯一の富野小中学校がある。米原、富野、大田の集落の子供達が通っている。(伊土名集落の子供達は野底小学校)

富野集落が創建された1952年 (昭和27年) に川平小学校の富野分校として設立され、翌年には川平中学校富野分校が併設、1957年 (昭和32年) に独立校として富野小学校、富野中学校となり、現在に至っている。

現在の生徒数は小学校生6名、中学生3名が在学している。1970年代には100名以上の生徒数だったが、集落人口減少に伴い、生徒数も激減している。



小字 桴海 (フカイ、ふかい)

かつての桴海の中心地で桴海集落があった地域は小字 桴海になる。


旧桴海集落 (フカイ)

富野集落から県道を少し西に進むと小字 桴海 (フカイ、ふかい) になる。この地には琉球国時代に桴海集落があった場所になる。

桴海集落は17世紀初頭には存在していたが、その創立時期については不明。1619年に桴海集落は山原 (ヤマバレー) と荒川 (アラカー) との間のフカイから大田兼久へ移転し、1625年には大波で流され、東の大原へと移ったと古文書にある。1753年に、平得村から寄百姓として100人を桴海集落に移住させて川平村から独立して桴海村となっている。

桴海村は風土病の猖獗もあって、人口の増加発展はなく、他村から人口補充などで村を維持してきたが、1768 ~ 71年頃に廃村となっている。人口データによると、廃村になった後も桴海村 (字 桴海) 域内には戦前までは70 ~ 90人が住んでいた。

かつての桴海村跡には多くに民家があり、観光客向けの食堂や宿泊施設なども目立っている。海岸沿いには、ホテルも建てられている。これは、戦後形成された米原集落が二分され、その半分程がこの地に移ってきたという経緯がある。


桴海御嶽 (ニーバルオン)

桴海村は琉球国時代に存在していた村なので、村域には幾つかの御嶽 (オン) があり、村人に信仰されていた。桴海御嶽 (ニーバルオン)は仲筋村の根原御嶽 (ニーバルオン) の分神を勧請して建立されたと伝わっている。この桴海御嶽の場所を野良仕事をしていたおじいに聞くと、御嶽がある森 (ウナスカの森、桴海39番地) を教えてくれたが、そこへの入口については覚えていないという。その森の周りを歩いたが入口らしきものは見当たらず、密林状態で中に入って探す事は断念。

桴海村にはこの他に、西大田御嶽 (イーリィフダオン)、八重山島由来記には「いてほた御嶽」、神名: 嶽名は西大田、御イビ名: はるけ大あるしと記載されている。現在の桴海383番地にあたる。子はら御嶽 (神名: 子はら、御イビ名: をらふむしさけ)、西大田御嶽の子御嶽 (ファーオン) としてビュース御嶽 (字桴海445番地)、桴海御嶽の子御嶽 (ファーオン) として宇根御嶽 (ウニオン) もあったという。また、かつては桴海村の一部だった野底には野城御嶽 (野底御嶽、神名: 野城、御イビ名: とんかいよせそい)、伊原間村に移って行った半嵩御嶽 (神名: 半嵩 (ハンダキ)、御イビ名: きしのよせ玉のよせ) も桴海村の御嶽だった。

以上の桴海域内の御嶽は神司 (チィカサ) の後継がなく、信仰が廃絶して、荒廃したまま推移している所が多い。

桴海村では川平村からの伝播であると推測されている真世加那志 (マユンガナシィ) の神事が行なわれていた。真世加那志 (マユンガナシィ) 信仰は仲筋村以東の平久保村まで広がっていたが、琉球国王府により禁止され、多くの村では廃絶したが、現在でも信仰が続いている地域がある。


小字 ヨ子ス (ヨネス)

小字 桴海の北西にある字で名の由来は不詳。


米原集落 (よねはら)

小字 ヨ子ス (ヨネス) 内には、1952年 (昭和27年) に政府計画移民として、沖縄本島の読谷と美里から131人 (28戸) が入植している。入植当初は芋、バナナ、陸稲、サトウキビを生産しており、水稲や陸稲がよく実ったことで米原 (よねはら) と名付けられた。他の集落と同様に、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1975年 (昭和50年) には 78人 (23戸) まで減少している。その後は増減を繰り返sすが、2000年代に入ると、徐々に人口と世帯数は増加二転じている。観光地となり、本土などからの移住者が増えたと思われる。それも2014年をピークとして人口は減少に転じ、2023年末では字 桴海人口は141人 (78戸) になっている。

米原集落は観光地化しており、集落内には宿泊施設、食堂、土産店があった。その中で、米子焼工房 シーサー農園の前にはカラフルなシーサーが置かれ、多くの観光客が訪れていた。


米原公民館、開拓之碑

県道79号線沿いに米原公民館が置かれている。この公民館は1972年 (昭和47年) に建てられている。

公民館敷地内の広場には開拓之碑が置かれ、その隣りの石には1952年8月に入植した開拓団の氏名が記されている。


米原のヤエヤマヤシ群落

米原集落から南の山への道があり、その道の先にはヤエヤマヤシ群落がある。道の途中から山の斜面にヤエヤマヤシが見える。400 ~ 500本も自生している群落内の一部には遊歩道が整備されて、ヤエヤマヤシを近くで観察できる。このヤエヤマヤシは石垣島と西表島だけに自生するヤシで1964年にノヤシ属の新種として認定され、本土復帰後に国指定の天然記念物になっている。



米原集落から富野集落に戻り、県道87号線に入り、今日の宿を予約している登野城へ向かう。


肥田埜勝美 句碑

県道87号線の登り坂を進み、於茂登トンネルの手前に親水公園が整備されている。トンネル内の走行は緊張するので、トンネルに入る前にここで休憩。

公園内には、肥田埜勝美の句碑が置かれている。肥田埜勝美は埼玉県出身の俳人で、俳誌「阿吽」を主宰。その五周年を記念し、文芸文化の啓発と俳句への関心を高めようと、1994年 (平成6年) に、この地に句碑が建立されている。

青葉木菟
遠し
二羽とも
谺とも


於茂登トンネル

於茂登トンネルは1987年に竣工した八重山で最も長いトンネルで、全長約1.2kmもある。歩道は狭く、自転車で走るのは車道を走るより危険なので、車道を走る事にした。トンネルの入口壁面には、交通安全を祈願して巨大シーサーが設置されている。出口の歩道脇にはシーサーも置かれていた。幸いにも車はあまり走っておらず、無事にトンネルを通過。


ここからは下り坂になり、石垣島の市内中心部に向かう、道の途中で、前回の石垣島を訪れた時に見れなかったスポットに立ち寄りながら、夕方に宿に到着。今日も長い一日だった。


桴海村 訪問ログ



参考資料