沢木耕太郎 著『おばあさんが死んだ』
静岡県の老女、
ミシシッピー州の老女
790時限目◎本
堀間ロクなな
わたしが雑誌編集の仕事をはじめた時分、業界には沢木耕太郎の『テロルの決算』(1978年)や『一瞬の夏』(1981年)に背中を押されて参入した面々が少なからず存在した。これからは取材力がモノをいうルポルタージュこそがメイントレンドだ、と――。そんなある日、堂々と編集部にやってきたひとまわり年上のルポライターから「おれは『おばあさんが死んだ』のような記事を書くつもりだ」と告げられたときには、わたしも大きく頷いたものだった。
沢木の『人の砂漠』(1977年)の冒頭を飾ったこの作品は、新聞の社会面の小さな記事を発端としている。1976年(昭和51年)2月、静岡県浜松市の借家でひとり暮らしをしていた佐藤千代(72歳)が栄養失調と老衰のため死んだ。彼女は生前、「他人の世話になるのはいやだ」といって巡回訪問の民生委員や警察官を家に入れなかったところ、死後、その奥六畳間でミイラ化した男の死体が発見され、部屋にあった10冊のノートから遺骸は兄の敏勝のもので、2年前に病死したまま布団に安置されていたらしいことがわかったという。新聞にはくだんのノートのページの写真が添えてあったが、そこには「四九・七・四(木) 細胞ノ死滅 POISON化ハ永年蓄積遂ニ癌化シ 諸症状病ヲ起シ生命ヲ終ル」といった文字が読み取れた……。
この記事に強い関心を持った沢木は、半月ほどしてから浜松に出かけて取材活動をスタートさせた。関係者の口は重かったものの、徐々に佐藤千代の人生の道のりが浮かびあがってくる。1903年(明治36年)生まれの彼女は、戦前に女子向けの歯科専門学校を出て、戦中・戦後にかけて大宮や掛川で歯科医院につとめながら独身生活を貫きとおし、68歳のときに身につけた技術も時代遅れとなって職を失う。そして、生まれ故郷の浜松に戻ってわずかな貯金を頼りにした生活に入るのだが、同時にかねて病弱だった兄の敏勝を引き取って看護にあたり、その詳細な記録をノートにつけていったのだった。沢木の取材によると、ふたりは戸籍上の兄妹の関係であるものの血のつながりのなかった可能性があるとして、最後の日々をつぎのように描きだす。
千代は敏勝の死体と共に暮らした。実に一年七カ月の長きに及ぶ。新聞記者は、葬式を出す金もなく、役所の世話にもなりたくないために死体を放置した、と解釈した。そして、それが偶然「ミイラ」になったと四天堂病院の院長は説明した。果して、そうなのだろうか。
敏勝の死後、千代はシッカロールを買っている。しかも三罐もである。敏勝は素裸にされて布団にくるまっていた。布団のくぼみ具合から考えると、恐らく千代はその横に寝ていただろうといわれる。〔中略〕
しかし、最晩年の二人にとって血の問題はほとんど何の意味も持たなかったろう。身を寄せ合って生きているということで、辛うじてすべての逆境に耐えられたのだ。少なくとも、千代にとって、病弱で美しい「兄」そのものが、「生」の目的だったのかもしれない。
圧巻である。わたしは初めてこの個所を目にした瞬間、背筋が震えだすのを止められなかった。だから、雑誌編集者の立場となって、目の前の年長のルポライターがこうした記事を書くつもりだと宣言したときに、みずからの取材力で世間の名もない人物の生きざまをとおして実存的な深淵に迫っていこうとする意図を理解して、即座に頷いたのだった。
しかし、現在のわたしはいささか違う考えを持っている。果たして、沢木は自己の取材力だけを当てにして仕事に臨むほどイノセントだったろうか? かれが事件を伝える新聞記事と出会ってから、実際の取材活動をスタートさせるまでに半月のタイムラグがあったという。この間に、おそらく担当編集者と事前の準備をしたのだろうが、そこには今回の記事の作成にあたってあらかじめ「下敷き」を用意しておく作業も含まれていたのではないか、とわたしは踏んでいるのだ。たとえば、アメリカのノーベル賞作家、ウィリアム・フォークナーは短篇小説『エミリーに薔薇を』(1930年)で、ミシシッピー州の没落した名家の令嬢エミリーが74歳で死んだのち、その邸宅の閉ざされた部屋のベッドに死体が見つかったというストーリーを書いている。それは数年前に土木工事の現場監督としてやってきて、エミリーとのあいだに交際が生じたのちに行方知れずとなっていた男のもので、どうやら彼女が殺鼠剤を使ったらしいことが判明し、こんなふうに結ばれる。高橋正雄訳。
そして、あの男の体はベッドのなかに横になっていたのだ。
かなりのあいだ、われわれはそこに立ったまま、男の意味ありげな、肉のこけおちた、にたっとした笑い顔を見おろしていた。その体ははじめは明らかに抱擁の姿勢で横になっていたらしかったが、いまでは、愛よりも長くつづき、愛のためにしかめられた顔の歪みさえも消してしまう永い眠りのために、妻を寝取られた男みたいに見えたのである。〔中略〕
そのときわれわれは、二つ目の枕のなかに頭の格好をした窪みのできているのに気づいた。われわれのひとりがその枕からなにかをつまみあげたので、あのかすかな、眼にはみえない、干からびた埃を鼻の奥につんと感じながら、身を前にのりだしてみると、ひと縒りの長い鉄灰色の髪の毛が眼にとまったのである。
このフォークナーの文章に、前記の沢木の記述を重ねてみるのは、それほど突拍子もない試みだろうか? あのときのルポライターはさんざん足を棒にして努力したものの、結局、『おばあさんが死んだ』に匹敵する記事をものすることができなかった。そして、自分には才能がないといって静かに去っていったのだが、わたしはいま、かれの取り組んだテーマに対してなんら「下敷き」を提示しえなかった駆け出し編集者の力量不足も原因だったのではないか、と考えている。