Okinawa 沖縄 #2 Day 302 (03/04/26) 石垣市 旧石垣間切 (4) Sakieda Village 崎枝村
旧石垣間切 崎枝村 (サキダ、さきえだ)
小字 大称原 (フーネーバル)
小字 トマタ (トゥマタ)
- 崎枝集落 (さきえだ)、入植三十周年記念碑
小字 赤崎 (アカサキィ)
- 崎枝公民館 (崎枝構造改造センター)
- 崎枝赤崎貝塚
- 崎枝小中学校
- 崎枝御嶽 (サキダオン)
小字 屋良部 (ヤラブ)
- 水難之碑
- 御神崎 (ウガンザキ、おがんざき)、石垣御願崎灯台
- 八重山丸沈没事故の慰霊碑、菩薩像
- 御神崎御願所
- ブナリィチィブリィイシ (姉妹の頭石)、フチブイ岩
- 温故知新 八重山青年会議所創立五十周年記念石碑
- 蘇澳港・八重山青年会議所姉妹締結15周年記念
- 屋良部川、屋良部橋
- 大崎 (フーサキ)、旧屋良部村
- カレンフェルト (Karrenfeld)
- 電信屋 (デンジンヤー、元海底電線陸揚室)
- 電信屋記念碑
- 長浜 (ナーバマ) 海岸
- 屋良部岳
旧石垣間切 崎枝村 (サキダ、さきえだ)
字 崎枝 (サキダ、さきえだ) は、大部分は石垣島最西部の屋良部半島にあり、東には字 川平、南東は字 名蔵に接している。
崎枝村は西表島の古見辺りからの移住者によって、村建てされたと推測されている。1647年の宮古八重山両島絵図帳には、石垣間切の村として描かれている。(他の資料では、この時代の崎枝村は宮良間切に属していた川平村の中にある小村とされている。)
屋良部半島は周辺の狭い海岸平野を除き、全体が高台地をなしており、そのほぼ中央部に226.5mの屋良部岳 (ヤラブダギ) がある。古くから牛馬の放牧がなされ、屋良部牧 (ヤラブマキィ) として経営されてきた。
半島の東、名蔵湾岸は古くから崎枝、川平の農民によって水田として開拓されていた。
屋良部半島の西岸は、古くからエラブウナギの漁場と して知られ、捕獲されたエラブウナギは乾燥され、薬用として販売または移出されていた。屋良部半島のヤラブという地名は、ヤラブ(てりはぼく)に由来するものと考えられるが、エラブウナギのエラブに由来するという説もある。
資料では、かつての崎枝村は小字 トマタにあったとされていたが、崎枝村にあった井戸の位置から見ると、小字 内原と小字 赤崎にまたがって形成されていたと思う。作成した民俗地図に井戸、番所も含めて旧崎枝村の位置をプロットしている。
崎枝村は元々は公民館がある付近のカナマで集落が形成され、1686年に赤崎下の兼久に移動したが、耕作地が狭く、1709年に北に移動したと伝わっている。1734年にそれまで属していた川平村から独立して崎枝村が誕生している。当時は屋良部村も含め約400人程だったが、1771年には崎枝村人口は729人にまで増加している。同年に起こった明和大津波では死亡者は5人だけだったが、田畑は大きな被害を受けている。
その後、マラリアや風土病で人口は激減し、1872年には僅か27人 (7戸) になっている。その後も村は再建されることもなく、1921年 (大正10年) 頃に廃村となっている。戦後の1948年 (昭和23年) に宮古島からの自由移民を中心として崎技集落が開拓集落として再建されている。
- 御嶽 (八重山島由来記): 崎枝御嶽
- その他御嶽: 屋良部岳山頂拝所
- 井戸: 西の井戸 (インヌカー)、上の井戸 (ウイヌカー)、南の井戸 (ハイヌカー)
宿のある登野城から、県道79号線で、大川、石垣、新川を通り、名蔵に入ると県道は海岸線沿いにになり崎枝に向かう。
小字 大称原 (フーネーバル)
字 名蔵から字 崎枝に入ったところが、小字 大称原 (フーネーバル) で、 ケーラ崎付近からミジュン崎付近に至る間の山裾にある細長い平地一帯になる。
ケーラ崎のケーラとは、元々はケールで八重山方言で、たたっ切るとの意があり、遠弥計赤蜂 (オヤケアカハチ) の乱 (1500年) で、この地で川平仲間村の豪族の満慶山英極 (ミツケーマ エイキョク) がアカハチ軍の謀略で落とし穴に落ち斬殺された事から地名になったと伝わっている。
ケーラ崎からは海の向こうに屋良部半島が見えている。今日はこの半島にある崎枝のスポットを巡る。
小字 トマタ (トゥマタ)
小字 大称原 (フーネーバル) から、小字 高田を越えると小字 トマタ (トゥマタ) になる。この地域に崎枝集落があった。この一帯はトゥマタと呼ばれ、トゥマタダー (十又田) と呼ばれる水田地帯だった。「トゥマタ」 とは十股の意があり、股とは股状になっているターバリ (田の割れ) のことをさしていると考えられている。かつて存在した崎枝村へ続く沿道に林立していた松をトゥマタ松と呼んでおり、民謡のトゥマタ松節に歌われている。
崎枝集落 (さきえだ)、入植三十周年記念碑
小字 トマタ (トゥマタ) に入ると、県道79号線は北側内陸部への登り坂になる。県道79号線は1953年 (昭和28年) に開通したオグデン道路を整備したもので、国道329号線と接続して、石垣島一周道路の一部になっている。坂道を登り切ると、広場があり、そこに戦後の入植でつくられた崎枝集落の開拓の歴史と初代入植者の苦労を称え、発展と子孫の繁栄を願って1797年 昭和54年建立された入植三十周年記念碑が置かれている。石碑には琉球国時代に崎枝村の目差役だった慶田城用舛の作歌・作曲とされている繁昌節が刻まれている。
だんじゅ豊ゆまりる (いかにも豊作となりました)
崎枝ぬ島や (崎枝の村々は)
黄金岡くさでぃ (黄金森を後ろにして)
田ぶく前なし (田んぼを前にして)
うやき繁昌 (富貴繁昌)
勝る繁昌 (益々繁昌)
且つまたた弥増し (そしてまた、ますます繁昌して行く)
この記念碑の西側の高台には、1947年 (昭和23年) 以降に沖縄本島の兼城や那覇市、多良間村、下地村、城辺町、平良市などからの自由移民が入植し、字 内原、字 赤崎、字 屋良部の広範囲にわたり、点在して入植者が住居を定めて崎枝集落が形成された。入植当初は、落花生、稲、サトウキビ、黄麻(ジュート)などを栽培していた。その後も入植者は増加して1965年 (昭和40年) には414人 (75 戸) までになったが、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1975年 (昭和50年) には116人 (26戸) と約50世帯が脱落している。その後、人口は横ばいで、2023年末では字 野底人口は134人 (66戸) になっている。
県道79号線 (一周道路) は東の川平に伸びており、崎枝には枝道 (崎枝本線) が西の崎枝小中学校へ分岐している。
小字 赤崎 (アカサキィ)
小字 内原の西に隣接しているのが小字 赤崎で、域内の南側の名蔵湾に面して、アカサキィと呼ばれる岬があり、小字名の由来となっている。
崎枝公民館 (崎枝構造改造センター)
崎枝本線を西に進んでいくと道路沿いに崎枝公民館 (構造改造センター) が建てられている。公民館は1968年 (昭和43年) に竣工され、現在の公民館はその後建て替えられたもの。
崎枝赤崎貝塚
小字 赤崎 の南側の低砂丘上で、崎枝赤崎貝塚が見つかり、1985年 (昭和 60年) と1986 (昭和 61年 )に発掘調査が行われている。この貝塚では土器は出土されず、無土器期の遺跡とが確認され、石斧、すり石、シャコガイ製貝斧、スイジガイ製利器などが出土している。更に、唐時代 の621 年に初鋳され、7 ~ 10 世紀に中国や東アジアで広く流通した開元通宝33枚が出土している。無土器期にも中国との接触があったことが分かる。
崎枝小中学校
公民館から道を少し進んだ所に崎枝小中学校がある。1951年 (昭和26年) に川平小学校の崎枝分校として入植合宿所の掘立小屋で生徒6名で開校した。1957年 (昭和32年) には生徒数は61名に増え、崎枝小学校として独立校となっている。1961年 (昭和36年) には、崎枝中学校が併設され、開校している。当時は小学生88名、中学生31名だった。その後、崎枝集落の人口は激減し生徒数も減少し、同じ様な状況にあった富野小学校と吉原小学校も含め川平小学校に統合の計画が出たが、各集落の反対で計画は白紙となり、現在でも授業を続けている。しかし、現在では生徒数は小中学校合わせて10名程のまで減っており、存続の危機にある。
崎枝御嶽(サキダオン)
崎枝小学校から一面畑の中の道を進む。
道の先に、森が見えてきた。森の前の広場に鳥居が置かれている。
これは琉球国時代に大阿母ら神司が琉球王府船の航海安全を祈願した石垣七嶽の一つの崎枝御嶽(サキダオン 神名: 名敷カイラツマ、イベ名: 神タレ大アルジ)になる。(七嶽 = 美崎、宮鳥、長崎、天川、糸数、名蔵、崎枝)航海と五穀の神を祀っている。1914年 (大正3年) に崎枝村が廃村となって以降、崎枝御嶽を信仰する人もいなくなり荒廃していた。戦後、自由移民入植で崎枝集落が再建された際に、偶然に崎枝御嶽が見つかり、香炉などを掘り起こし、鳥居や拝殿を再建し、以来、崎枝の住民によって拝まれている。
入植者により建てられた鳥居の先には拝殿も建てられ、殿内には、崎枝御嶽の香炉、於茂登岳へのお通し、沖縄本島へのお通しの香炉が置かれている。拝殿前には舞台が設けられている。豊年祭での催し物に使われているのだろう。
拝殿の後方には石垣で囲まれたイビ殿があり、その入口横には祠が置かれ水元の神を祀っている。
拝殿横には二つの祠があり、龍宮お通しのトゥニ元 (写真左下) と火ヌ神 (ピヌカン 写真右下) が祀られている。
小字 屋良部 (ヤラブ)
屋良部半島の西域部一帯はヤラブと呼ばれ、域内には屋良部岳 (ヤラブダギ)、屋良部崎 (ヤラブザキィ) などがある。kこの地名が小字名の屋良部 (ヤラブ) の由来になる。
崎枝御嶽から道を進むと登り坂になり、一面放牧場になっている。ここからは崎枝湾の向こうに川平の半島が見えている。明治時代まではこの辺り一帯は祖納牧と呼ばれた牧草地が広がっていた。
水難之碑
坂道を登り、御神崎に向かって道を進むと、駐車場があり、その奥に石碑が置かれている。この碑は1999年 (平成11年) に建立された水難之碑で、前年の1998年 (平成10年) に、近くので遊泳中に沖合に流された友人の救助に向い死亡した女性観光客の供養塔として、水難者関係者により建立された。今年も石垣島での水難事故の報道を何件か見かけている。
御神崎 (ウガンザキ、おがんざき)、石垣御願崎灯台
道を進んで今日の主目的地の御神崎に到着。御神崎は神が降臨する所と言われ、昔から石垣島住民の信仰の場所だったという。
ここには石垣御願崎灯台があり、道から急な坂道を登った岬の崖の上にある。灯台は1983年 (昭和58年) に建設された。灯台は現在修理中のようで、灯台への階段は閉鎖され、近くには行けなかった。
八重山丸沈没事故の慰霊碑、菩薩像
灯台の丘から、御神崎に降りていく途中の広場に石碑が置かれている。1952年 (昭和27年) に、この御神崎の沖合いで、那覇から石垣へ帰る途中の八重山丸が、北からの激しい季節風で大時化となり、操舵用のチェーンが切れ、航行の自由を失い、横波を受け横転沈没した。死者行方不明者35人という大惨事となり、犠牲者の25回忌の1978年 (昭和51年) に八重山丸遭難者遺族の会により、航行の安全を願い、遭難の碑が建設されている。
また、近くには、同年に八重山丸遭難者遺族の会により、犠牲者の供養塔として、南無観世音菩薩と刻まれた菩薩像も建立されている。
御神崎御願所
御神崎灯台の下の崎枝半島の端、岩場の中に、御願所がある、そこに行くには、手前の大岩をよじ登っていくしかないようだ。崖の上で、高所恐怖症で足がすくむ。雨上がりでもあり、足を滑らせては大変だと思って悩んでいたら、外国人の少年が、軽々と岩に登り、更に岬の一段高い大岩野上まで登っていった。若い時を思い出した。そのころは危険等は考えず、どこでも平気で言ったものだが、今はそうはいかないようだ。少年に圧倒され、同じ様にはできないなと思い、拝所まで行くのは断念。宿に帰ってから、そこを訪れた写真 (右下) が見つかったので、拝借して載せておく。それによると不動明王像が置かれている。昔から拝所としてあったのかなど、御願所詳細は不明だが、航海安全を祈っていた場所だそうだ。
ブナリィチィブリィイシ (姉妹の頭石)、フチブイ岩
岬の先の海岸に巨石が聳えている。その上に大岩が乗っている。この大岩はブブナリィチィブリィイシ (姉妹の頭石) とかフチブイ岩とか呼ばれ、これにまつわる色々な話が伝わっている。この場所は、神の降臨する所で、神々が相談して、この大岩を置いたという話もある。
ブナリィチィブリィイシ (姉妹の頭石) と言われる話は
昔、名蔵に、とても信心深くて働きものの姉と、どうしようもなく怠けもので朝から酒を飲んでブラブラしている弟がいました。そんな弟に、姉はいつもいつも心を入れかえて、祖霊をうやまい、先祖が残してくれた土地を耕してまじめに働くようにと言い聞かせるのでしたが、弟はなにを言われても気にもとめていませんでした。
ある日の夕方、姉が畑から帰って来ると、弟は悪い友人を呼んでみんなで酒盛りをしていました。怒った姉はおもわず大声で弟を叱りつけると、弟はみんなの前で恥をかかされたと言って、家の中からナタを持ち出してきて姉を切りつけてしまいました。
切りはなされた姉の頭は、弟の首にくらいついて弟をかみ殺すと、そのまま空を飛んで御願崎の先の海の中につき出している岩の上まで行くと、その岩の上にかみついて止まりました。そして、姉の頭はそのまま石になってしまいました。今でも御神崎の先の岩の上にその石があって、どんな嵐があってもそこからはなれることはありません。
更にフチブイ岩と呼ばれる話は
昔、崎枝村で、兄と妹の2人が暮らしていました。遠くの田んぼへ出かけて行った兄のために、お弁当を作って持って行こうとした時、マラリアの発作が起こったので、風呂敷のようなかぶり布(フチブイ)に包んである弁当を眺めながら熱が下がるまで寝ていました。
やがて熱が下がり外へ出るとお昼はとっくに過ぎてしまいましたが、包みを頭にのせて道を急ぎました。すると途中で家へ帰ってくる兄に会うのですが、兄は妹を見るなり怒鳴り、包みをわしづかみにすると力いっぱいどこかへ投げつけたのです。
妹は鬼のような形相の兄が怖くて、立ったまま顔を覆っていたため、兄が弁当を投げ捨てたことを知りません。二、三日して恐る恐る「兄さん、この前弁当を包んだフチブイを返してください。大事なものですから。」と言いました。自分のしたことを後悔していた兄は、弁当を投げた所を探したのですが、見つけることが出来ません。
フチブイのことは、八重山の神々の間で問題になっていました。というのも、妹は将来、崎枝御岳の神司になるはずの人だったからです。このフチブイの包みを、どこかいつも変わらぬ所に置くことになり、村々の神様を呼び集め相談した結果、フチブイの包みは御神崎の先の海に突き立っている大岩の頂上に安置することになりました。のちに、この包みは岩になってしまったので、フチブイ岩と呼ぶようになった
と伝わっている。
この岬からは、この後、自転車で走る屋良部半島の南側が見える。
灯台のある高台に戻り、灯台手前にある広場に置かれている石碑を見学。
温故知新 八重山青年会議所創立五十周年記念石碑
八重山青年会議所創立五十周年記念石碑は、石垣島の青年会議所の活動と歩みを記念して2011年 (平成23年) に建立建立されたもので、碑文には次の様に書かれている。
温故知新
現在私達がこの地域で幸せに暮らすことができるのは、先人たちの知と汗と涙の結晶であり、私達の生活はその上に成り立っている事を知らなければなりません。世界の恒久平和が究極の目的である日本最南端の青年会議所として、時代の変化へ即応すべく組織づくり、まちづくりを常に提言し行動に移すことが、私達の使命だと考えます。今年、八重山青年会議所は創立五十周年を迎えます。守るべきものは守り変えるべきものは変え、新しい価値を創造しながら未来へ繋げていく為に、温故知新の精神を以って此処に記念碑を建立しこれからの活動の礎と致します。
蘇澳港・八重山青年会議所姉妹締結15周年記念
石碑の奥にももう一つ石碑が置かれている。こちらは今まで、幾つかの石碑をで見かけた台湾・蘇澳港との姉妹締結記念碑で1996年 (平成8年) に中華民國蘇澳港青年商會と八重山青年会議所により建立されている。この蘇澳港と石垣市との交流はかなり緊密のようだ。
石垣御願崎灯台から道に戻り、スマートフォンでこの先の道の高低を調べようとしたが、電波が来ていない。石垣島の北部でも電波が来ていない所が何ヶ所かあった。この辺りには民家もないので、それも仕方ないだろう。道は一本しかないので、迷うことはないのだが、石垣島はアップダウンが多いので、気やすめの為に道の高低が知りたかっただけ。
この道は戦後、崎枝小中学校まで伸びていた崎枝本線の延長道路になる。屋良部半島の南、西、北側は岩盤地帯で道路の開削整備は崎枝地区多年の懸案となっていたが、1987年 (昭和62年) に屋良部半島一周道路が全線開通している。それまでは、整備の細い道だったのだろう。
屋良部川、屋良部橋
屋良部半島一周道路を東に進み、峠を越えると再び海岸に出て、しばらく走ると、屋良部川に架かる屋良部橋を渡る。橋の欄干に絵が掲げられている。海に浮かぶ離島が描かれている。晴れた日の様ぐれ時は絵の様に見えるのだろう。石垣島の幾つかの海岸は夕焼けが綺麗で観光客人気のスポットとなっているのだが、自転車で訪れると帰りは真っ暗闇の中を走ることになるので、残念だが夕暮れ時の遠出は避けている。
大崎 (フーサキ)、旧屋良部村
道を更に南に進み大崎に出る。屋良部半島南端の岬になる。岬の上建物が見えるが、そこが次の訪問地になる。
この辺りにはかつては屋良部村という崎枝村の小村が存在していた。ここは屋良部岳の麓で、広い土地があり水の便もよいため、1734年に耕地不足に悩む竹富村から男女74人を移住させて、同年に川平村から独立し新設された崎枝村の小村として屋良部集落が創建されている。1737年には69人と記録にあるが、その後、マラリアや風土病により人口は激減し、1873年には僅か7人と衰退している。屋良部集落は崎枝村の小村だったので、いつまで存続したかは記されていなかったが、崎枝村は1921年 (大正10年) 頃には廃村となっているので、同時期かそれ以前に事実上廃村になっていただろう。
現在では民家などは見当たらず、牧草地となっており、多くの牛が放牧されている。
明治時代までは、崎枝村の屋良部半島の平地全土が牧場となっており、屋良部牧、祖納牧、真地牧の主要な牧場が三ヶ所あった。この場所は屋良部牧があった所にあたるだろう。
カレンフェルト (Karrenfeld)
牧草地の中には、カルスト地形の一種のカレンフェルトの岩がある。カレンフェルトは石灰岩台地が雨水で溶食され、表面に溝(カレン)が刻まれた岩の石灰岩柱が立ち並び、羊群原とも呼ばれる。本土では秋吉台が最大規模。
電信屋 (デンジンヤー、元海底電線陸揚室)
牧草地の中の道を大崎 (フーサキ) まで進む。長浜 (ナーバマ) 海岸への入口に電信屋 (デンジンヤー) と呼ばれた遺構が保存されている。
御神崎から1895年 (明治28年) の日清戦争終結後、清国から台湾が割譲され、日本はその領有となった台湾との間に通信回線を敷設することになる。1896年 (明治29年) に鹿児島と沖縄本島との間に、翌1897年 (明治30年) に沖縄本島 ~ 石垣島 (大崎) ~ 台湾間、石垣島 (大崎) ~ 西表島間に海底電信線を敷設した。当初、海底電信線は陸軍省が管轄していたが、後に逓信省に移管されている。ここに残っている電信屋 (デンジンヤー) は1897 (明治30年) に海底電線陸揚室として建てられ、沖縄本島や日本本土、台湾間の通信に利用された二ルートの海底線の中継地として設置され、ここから大川の八重山郵便局へは電信柱で電線が架線され、明治・大正・昭和の約半世紀にわたり役割を果たしてきた。太平洋戦争の際には連合軍の攻撃目標となり、無数の弾痕が残っている。
電信屋記念碑
電信屋 (デンジンヤー) の側には海底電信線の陸揚げ地だった事を表す記念碑が2001年 (平成13年) に建立されている。
長浜 (ナーバマ) 海岸
電信屋記念碑から、長浜 (ナーバマ) 海岸に出る。この浜に海底ケーブルが陸上げされていたのだ。海の向こうには竹富島がうっすらと見えている。
屋良部岳
大崎からは道は長浜 (ナーバマ) 海岸沿いの屋良部半島一周道路を通り、県道79号線に向かう。道を東に進んでいくと、北側に屋良部岳が聳えている。標高216mの山で登山道もある。屋良部岳は霊験あらたかな山とされ、頂上には拝所もあるそうだ。登ってみたいのだが、既に夕方4時を過ぎており、帰りの時間を考えると無理。次回以降、石垣島に来た際に登ってみたい。
この後、長浜 (ナーバマ) に続く大目田浜 (フミダパマ) の海岸沿いの屋良部半島一周道路を通り、県道79号線に入り、来た道を登野城の宿まで向かう。
参考資料
- 石垣市史 各論編 民俗 上 (1994 石垣市役所)
- 石垣市史 各論編 民俗 下 (2007 石垣市役所)
- 石垣町誌 (1975 喜舎場 永ジュン)
- 八重山を学ぶ (2024 『八重山を学ぶ』刊行委員会)
- 八重山歴史 (1954 喜舎場永珣)
- 石垣島の風景と歴史 (2911 石垣市総務部市史編集課)
- 石垣市史研究資料 1 いしがきの地名 1 (1989 石垣市役所総務部市史編集室)
- 八重山のお嶽 (1990 牧野清)
- 村むら探訪 Vol 3 開拓の村むらを歩く (1995 石垣市総務部市史編集室)
- 崎枝回顧録 (2024 崎枝公民館)
- 崎枝の宝物 (2019 崎枝公民館)