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Okinawa 沖縄 #2 Day 303 (04/04/26) 石垣市 旧石垣間切 (5) Nagura Village 名蔵村

2026.04.05 03:38

旧石垣間切 名蔵村 (ノーラ、なぐら)

小字 神田原 (カンダバル)

小字 元名蔵 (ムトゥノーラ)

小字 シーラ原 (シィーラバル)

小字 大田原 (フーダバル)

小字 村中 (ムラナカ)

小字 浦田原 (ウラタバル)



今日は今回の石垣島訪問の最終日で、まだ未訪問だった名蔵と川平を散策する予定。


旧石垣間切 名蔵村 (ノーラ、なぐら)

名蔵の字域は東は宇登野城、南は字 大川、字 石垣に、北は字 川平、西は字崎枝に接している。

琉球国時代の名蔵村 (ノーラ) は浦田原 (ウラタバル) と神田原 (カンダバル) との間に位置していた。1647年の宮古八重山両島絵図帳には那蔵村と記されているので、それ以前に創建されている事がわかる。

琉球国時代の17世紀には名蔵村は現在の小字 村中にあり (本名蔵)、石垣村に属していた。

村は繁栄せず、1686年に久米村の外間親雲上の風水見 (フンシミー) により、西方の名蔵湾岸の潮嶺 (シーラ、スーンニ ) に移転している。この潮嶺の名蔵村には耕作地の少ない石垣村や登野城村から農作業に通っており、また、当時は石垣村に属し、 年貢上納や公事勤めに際しては一里余の川良山道を同村まで出掛けねばならず、更に、少人数では村の維持も困難 という事で1737年に石垣村と登野城村から200人程を寄百姓して移住させて、名蔵村は石垣村から独立している。190年間は潮嶺に留まっていたが、村は繁栄しなかった。そこで、1876年 (明治9年) に再び旧地に戻っている。移動前の潮嶺一帯を、元名蔵 (ムトウノーラ) と呼んでいる。旧地に戻った後、明治中期頃から糖業を主体とする大掛かりな農業開拓事業が行なわれたが、マラリアなどの風土病や台風などの自然災害を受けて中途挫折し、村は繁栄せず、1916年 (大正5年) に廃村となっている。その後も、人は住んでいたが、1930年 (昭和5年) には僅か30人にまで減少している。戦後、1947年 (昭和22年) から旧名蔵村の村中に、1948年 (昭和22年) から元名蔵に自由移民が開拓集落を創建している。1965年 (昭和40年) には621人 (126戸) にまでになったが、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1975年 (昭和50年) には390人 (91戸) に減少している。その後、1990年代後半に元名蔵で住宅地が開発され人口は増加したが、2007年以降は人口減少が続き、近年では世帯数も減少傾向にある。2023年末では字 名蔵の人口は365人 (113戸) になっている。


昨日、崎枝へは県道79号線 (石垣港伊原間線) を通り向かった際には、今日の訪問地の名蔵の西海岸を通っている。

県道は両側に林が長く続き、広い歩道が整備されて自転車で走るには快適だった。


小字 神田原 (カンダバル)

名蔵湾に面して字 石垣に北に接した地域、名蔵川河口の東方に広がる田地一帯にはカンダと呼ばれる田地があった事が、神田原 (カンダバル) の由来。現在でも、神田原では稲作が行われており、名蔵アンパルの東側一帯には水田が広がっている。

広大な名蔵平野は古くから、名蔵野 (ノーラヌー) と呼ばれ、水 の豊富な肥沃な土地だった。かつての水田には、浦田原(ウラタバル)、西多良地 (ニンィタラシ)、神田原 (カンダバル)、大田原 (フーダバル)、トウレー原 (トーレーバル)、ピイナダ (ビィナダ)、白水 (シィサミシィ) などがあり、古くから開田されて、石垣島の有力な殺倉地帯を形成し、地元名蔵の居住者以外にも、四カ字の農民などが耕作していた。


名蔵小橋

字新川、字石垣から名蔵には名蔵小橋を渡って入る。この橋は、名蔵川が名蔵湾に流れ込む所にできた干潟にある砂洲の長細い小島にかかっている。昔はアンパル橋と呼ばれていた。名蔵小橋の水路はマングローブ林になっている。南側一帯はクードーパマ (クードー浜) が広がっている。



小字 元名蔵 (ムトゥノーラ)

名蔵川河口の北方は潮嶺 (スンニ) と呼ばれる台地があり、この潮嶺 (スンニ)は元の名蔵村敷跡といわれている。この事から、一帯は元名蔵 (ムトゥノーラ) と呼ばれ、小字名となっている。南の小字 神田原とは名蔵川が境界線となっている。


名蔵大橋

名蔵小橋から小島の砂洲海岸林を進むと島の半ばから北は小字 元名蔵 (ムトゥノーラ) になる。この小字の道を進むと、もう一つ橋がある。名蔵大橋でこれを渡ると名蔵川干潟の小島から抜ける。

名蔵大橋は古くから橋は架けられていたが、正確な時期は不明。橋が架けられていなかった当時は、干潮になった時に干潟を歩いて渡っていたが、満潮時に渡らなければならない際には、着物が濡れないようにと胸のあたりまで捲り上げて渡っていた。男女が居合わせた時には、男が前になって渡り、女は後ろから「振り向くなよー、振り向くなよー」 と言いながら渡ったと伝えられている。

資材も技術も不十分な時代には、この名蔵川の架橋は困難を極め、架橋してもすぐ次の暴風によって破壊されていた。明治以降も、名蔵大橋は何度か築け替えられていた。1932年 (昭和7年) より1934年 (昭和9年) に道路橋梁護岸等の復旧工事が行われ、19の橋脚をもつ長さ約100mの名蔵橋 (写真上) が竣工している。戦後、1950年 (昭和25年) に戦前のコンクリート橋に鉄橋 (写真左下) をつなぎ合わせて架設された。鉄橋の部分の腐食で、1963年 (昭和38年) に鉄橋の部分を搬去して全鉄筋コンクリート橋 (写真右下) に架け替えられた。

現在の名蔵大橋は1984年 (昭和59年) に竣工したもの。


名蔵アンパル

名蔵大橋を渡った所に名蔵アンパルの駐車場があり、名蔵アンパルの紹介板が置かれている。

名蔵アンパルは石垣島最大の湿地帯で、名蔵川河口の名蔵湾が長さ約2kmの砂洲に仕切られた干潟 (約 20ha) で、干潟からは広大なマングローブ林 (約 62ha) があり、その陸側に広大な湿地草原 (約49ha) が広がっている。

アンパル付近の海は遠浅で、魚介類が豊富で、満潮時に網を張っておき、干潮時に自然に網に掛かる魚を獲るという原始的漁業が行なわれていた。

アンパルの地名由来の民話が伝わっている。

昔、真栄里村にマニッカという三人兄弟がいた。この三人は過酷な人頭税から逃れるために於茂登岳に逃亡した。村人達は、三兄弟の税の分負担が重くなるのでその居場所を探していた。或る日、平得村の男が犬を連れて山に猪狩に行ってみると、犬がほえるので行ってみると、そこにマニッカ兄弟が居た。マニッカ兄弟は捕らえに来た思い争う構えをしたが、とらえに来たのではない事を知り、その男と取引をした。「この山に隠れていることを他言しないでくれれば、夜、君の田畑を耕しておく」と約束して姿をくらました。
ところがその後、山近くの畑から作物が盗まれ、畑仕事をしている若い女が三兄弟にさらわれる騒ぎが起こった。とらわれた女は常づね三兄弟から逃げる策を考えていた。女は「川つたいに山から名蔵に出て、舟で西表島に逃げて暮そう」と話しかけたところ、兄弟はその気になって逃げることになった。女はなんとか村人にそのことを知らせようと思い、「着物に不自由しているので織機をとってくるから、名蔵のひるぎ林で待っているように」と三兄弟に伝えました。女は山から降りると急いで役人や村人たちに事の次第を知らせた。三兄弟はそうとは知らずに山から降りて名蔵川河口まで来たところ、「網を張るように待っていた役人や村人たちに捕らえられてしまった。
それから名蔵川の河口一帯を「アンパル」(アン = 魚を採る網を パル = 張る)と呼ぶようになったと伝えられている。

また、案内板では石垣島で広く歌われている「あんぱるぬみだごうまゆんた」 という歌を紹介している。ユンタは八重山の歌謡の一種で、民衆の歌う労働歌である。三線や太鼓などの伴奏がつかず、アカペラの男女の掛け合いで合唱される。名蔵アンパルは、古くから島の人々の生活の場で、人と自然の関わりの中で生まれたのがこの民謡。名蔵アンパルに棲むミダガマ (目高蟹、ツノメガニ) が主人公となり、芸能の準備係であるグイダーサカン (ミナミオオガニ)、桟敷係のダーナカン (オキナワアナジャコ) や笛吹きのピンギャーカン (キンセンガニ)、太鼓打ちのキカランカン (タイワンガサミ) の他に、三線係や獅子舞、舞踊係、給仕、見物係など、アンパルに生息する15種類の蟹に八重山の豊年祭や祝い事における芸能の役を割り当て、人の思いを代弁させて、 21番にわたって歌われている。この唄は村の祭りを取り仕切る立場の人が作ったとされ、座を盛り上げるために円陣を組んで唄われたり、祭りや芸能の準備の際にも唄われたといわれている。


元名蔵 (ムトゥノーラ) 村、元名蔵集落 (戦後)、獅子森景観地区

小字 元名蔵の海岸寄りには潮嶺 (シーラ、スーンニ ) と呼ばれる地域で、小字 村中にあった名蔵村が繁栄しない事から、1686年に久米村の外間親雲上の風水見 (フンシミー) に従って、この潮嶺 (シーラ、スーンニ ) の地に移転し、村名を初納村 (ハツノウ) と改めたという。それ以降190年間とどまっていたが、村が繁栄しなかったので、1876年 (明治9年) に再び旧地に戻っており、移動前の潮嶺一帯を、元名蔵 (ムトウノーラ) と呼ぶようになった。

戦後、1948年 (昭和23年) 以降、小字 元名蔵の県道79号線が、県道211号線と合流する手前あたりに自由移民として、沖縄本島、宮古島、台湾から入植し、芋、陸稲、パイナップルを生産していた。パインブームもあり、1958年 (昭和58年) には人口109人 (18戸) に増加したが、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1975年 (昭和50年) には31人 (9戸) と1958年の半数にまで減少している。

小字 元名蔵の北部、県道79号線 (石垣港伊原間線) と県道208号線 (石垣浅田線) が合流する三叉路の東方高台に、1996年 (平成8年) 頃から獅子森地区の宅地開発 (35戸) が行われた。この時期から、名蔵の人口は増加し、113人 (43戸) になっている。この住宅地は獅子森景観地区に指定され、八重山の伝統的な建築様式の赤瓦屋根など決められた様式での建築協定が設けられてる。洋風の香りや島の風情が混在しており、県外からここに移住してくる人に人気となり、石垣島移住ブームのはしりになった。

この住宅地開発にもかかわらず、1996年をピークとして、その後、人口は減少に転じ、今後も減少傾向にあるように思える。2023年末の小字 元名蔵人口は68人 (39戸) で、獅子森地区の35戸は人口維持には貢献していない様に思える。また、小字 元名蔵全体でも39戸と獅子森地区の35戸 (3LDK) との関係が不透明だ。世帯あたりの人数も1.7人と極めて低い。推測だが、獅子森地区では別荘として使用して住民登録していない戸が多く、商売に使用されている所もあるのではと思える。また景観地区に指定している根拠も不透明だ。通常、景観地区になる地域は昔からの家屋や貴重な自然があり、それを残す為に設けられているのだ。この獅子森地区は「沖縄らしい風景」を新たに住宅地建設し、この様な開発ができる人材育成などを目的としているとされている。石垣市が何を目的としてこの景観地区としての住宅地を開発したのか疑問が残る。石垣市としてこの獅子森地区の評価はどの様なものなのか興味がある。川平でも景観地区に対して住民と石垣市の間で意見の相違があった様だ。



小字 シーラ原 (シィーラバル)

小字 元名蔵の北は名蔵湾に面した小字 シーラ原 (シィーラバル) なり、北は字 崎枝に接している。


仲間満慶山終焉之地

名蔵大橋の少し北で県道79号線は林間道路から海岸線の道路に変わる。

シィーラパマ (潮嶺浜)沿いの県道を北に進むと、ケーラ崎があり、そこに仲間満慶山終焉之地の石碑が建てられている。仲間満慶山英極 (ナカマミツケーマエイキョク) は15世紀末期に川平村を支配していた年は32 ~33才の若い豪族で、大浜村の遠弥計赤蜂 (オヤケアカハチ) と登野城の仲須目原 (ナカシィメーバル) と会見し、遠弥計赤蜂から反首里王府 (尚真王) への参加を打診されたが、この協力を断った。その会談の後、仲間満慶山英極が川平村に帰る途中、遠弥計赤蜂の手下の仕掛けた落とし穴に落ち、名蔵湾沿いのこのケーラ崎で暗殺されたと伝わっている。ケーラ崎のケーラとは、元々はケールで八重山方言で、たたっ切るとの意があり、この地で仲間満慶山英極が斬殺された事から地名になったと伝わっている。 (下の図のオヤケアカハチの乱の経緯については大浜村訪問記に記述している)

ここに立つ石碑は1961年 (昭和36年) に仲間満慶山英極の子孫にあたる憲章姓一門の関係者によって建立されている。石碑の横にはヤシガニの大好物の実を付けたアダン (阿檀) が生えている。八重山では実や葉の新芽を食用としている地域もあるそうだ。


ここまでが昨日に見学したスポット。これからが今日の散策部分。




昨日とはルートを変えて、県道208号線 (石垣浅田線) を北に進み、バンナ公園南口経由で名蔵に向かう。この県道208号線は整備される前までは川良山道 (カーラヤマミチ) だった。


小字 大田原 (フーダバル)

名蔵川下流域の南方にには大田 (フーダ) と呼ばれる田地があり、それが小字名の大田原の由来という。


名蔵川 (ノーラガーラ)、神田橋

県道208号線で名蔵集落に入り、更に道を北に進み名蔵川 (ノーラガーラ) に着く。延長 4.55 km の名蔵川は沖縄県の最高峰於茂登岳を水源として、名蔵アンパル至り、河口部の細長い砂洲の両端の切れ目から名蔵湾に流れ込んでいる。名蔵川には神田橋が架けられており、ここから名蔵川下流の名蔵アンパルに向けてマングローブ林があり、上流にもマングローブ林が伸びており、川には数名がカヌーやSUPでマングーローブツアーを楽しんでいた。


大田原遺跡、神田貝塚

神田橋の手前の丘では大田原遺跡、それに隣接して神田貝塚も発見されている。

1980年 (昭和55年) に、県道208号線 (石垣浅田線) の拡幅工事で、かつて神田橋の手前から名蔵集落方向へ150mの範囲に広がっていた遺跡は、神田貝塚は消滅、大田原遺跡のほとんど消失し、この丘が大田原遺跡の一部として残っている。道路工事前に発掘調査が行われ、大田原遺跡では多量の土器片 (下田原式土器) と局部磨製石斧が出土している。また、建物の柱跡らしきものも見つかっており、竪穴式住居であったと考えられている。放射性炭素年代測定によって紀元前1800年頃のもので、石垣島では最も古いグループに属する遺跡と判明している。神田貝塚は起源500~ 800年の無土器期のものとされている。

また、この神田橋付近、大田原遺跡から少し名蔵集落よりの場所 (写真上の手前の場所) で平窯構造の瓦窯跡が見つかっている。200 ~ 300枚の瓦が一度に焼けるほどの大きな窯で、周辺から大量の瓦が出土している。琉球王府の政策に基づいて、1695年に沖縄本島から瓦工の瀬名波仁屋を招聘し、操業を始め、1730年まで蔵元の屋根瓦を製造し、名蔵窯は1731年に慶田川 (キダナー)窯に統合され、名蔵窯の歴史は幕を閉じている。



小字 村中 (ムラナカ)

小字 大田原と神田原の間にあるのが、小字 村中 (ムラナカ) で名蔵集落の中心地になる。


名蔵集落

名蔵村の変遷については前述しているが、簡単に再度記しておく。琉球国時代の17世紀には名蔵村は現在の小字 村中にあった。 (本名蔵) 1686年に風水見 (フンシミー) により、名蔵湾岸の潮嶺 (シーラ、スーンニ ) に移転している。1737年に石垣村と登野城村から200人程を寄百姓して移住させて、名蔵村は石垣村から独立。村は繁栄せず、1876年 (明治9年) に再び旧地 (本名蔵) に戻っている。マラリアなどの風土病や台風などの自然災害を受けて人口は激減して、1916年 (大正5年) に廃村となっている。その後も、人は住んでいたが、1930年 (昭和5年) には僅か30人にまで減少している。

戦後、1947年 (昭和22年) から旧名蔵村の村中に、1948年 (昭和22年) から、沖縄本島、宮古、竹富、与那国、台湾から自由移民が開拓集落を形成した。1965年 (昭和40年) には537人 (108戸) にまでになったが、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1975年 (昭和50年) には359人 (82戸) に減少している。その後、世帯数は増加しているが、人口は減少傾向が続き、近年では世帯数も減少傾向に変わっている。



小字 浦田原 (ウラタバル)

名蔵平野の東部域に広がる水田地帯を含む一帯は浦田原 (ウラタバル) と呼ばれた水田地帯だった事が小字名の由来。この浦田原には名蔵村の三つの御嶽が存在している。


石垣製糖

小字 村中から東への県道211号線 (新川白保線) に入った所にDM三井製糖の子会社の石垣製糖がある。1961年 (昭和36年) に石垣島製糖株式会社が設立され、糖業振興に基づき小型24工場を買収し黒糖を生産販売を開始。1962年 (昭和37年)大日本製糖 (現在のDM三井製糖) と提携。1967年 (昭和42年) に琉球政府の糖業合理化対策により経営不振だった八重山製糖株式会社を吸収合併している。

工場から出る処理済みのサトウキビの山には数えきれない程のサギが群がり、餌を啄んでいた。


名蔵公民館

石垣製糖の東側には名蔵公民館が建っている。公民館は、戦後、この地に入植した人たちにとって、1969年 (昭和44年) に建てられ、現在の建物はその後建て替えられたもの。


名蔵入植50周年記念碑

公民館の前庭には、戦後、1947年 (昭和22年) にこの地に入植してから50周年を記念した石碑が1985年 (昭和60年) に建てられている。


名蔵小中学校

公民館の東隣には名蔵小中学校が建っている。1949年 (昭和24年) に登野城小学校嵩田分校として始まっている。1954年 (昭和29年) に石垣中学校嵩田分校が併立され、1956年 (昭和31年) に名蔵小学校、名蔵中学校として独立している。2023年(令和5年)/ 2025年 (令和7年) の生徒数は、小学校は23人/13人、中学校は14人/11人と年々減少している。


白石御嶽 (ティラスオン、シィサスオン)

名蔵小中学校の北側の畑の中に白石御嶽 (ティラスオン、シィサスオン) がある。神名は 「照添照明し」、イビ名は 「 みものともそい」 で、於茂登岳の神の天照らすの神 (ウムトゥティラス) を祀っている。天照らすの神 (ウムトゥティラス) が天から天降りをするとされる旧暦1月1日に祈願を行うならわしとなっていた。

この白石御嶽には鳥居、拝殿、イビ殿などはなく、小さな祠が巨岩の前に建立されている。


地神宮

白石御嶽の巨石の側には 「地神宮」 と刻まれた石柱が置かれている。この石柱はサトウキビ開拓などで四国・徳島から一帯に入植した農業労働者によって分祀建立された農業神を祀っている。現在では祭祀も途絶えている。


名蔵御嶽 (ノーラオン、ナグラオン)

白石御嶽の北の畑地帯の中に森があり、その中に名蔵御嶽 (ノーラオン、ナグラオン) がある。琉球国時代に大阿母ら神司が琉球王府船の航海安全を祈願した石垣七嶽のを見てきたが、これが最後御嶽。(七嶽 = 美崎宮鳥長崎天川糸数名蔵崎枝) 

森の入口にある鳥居を潜ると、長い参道が拝殿まで続き、拝殿奥にはイビ殿が置かれている。神名は 白石御嶽と同じく「照添照明し」 で於茂登岳の神の天照らすの神 (ウムトゥティラス) を祀っている。イビ名は 「四座の名 おもとあるじ、東花てよし、はななかおもとなかたらい、袖たれ大あるじ」 とあり、於茂登岳をイビとして祀っていると伝えられる。御茂登岳は本来は大本岳と呼ばれ、島の大本をなす神岳として崇敬され、古来より八重山群島民信仰の中心をなしてきた。

また、この名蔵御嶽では名蔵集落の台湾出身者達により 「土地公祭」が毎年旧暦8月中旬頃の十五夜の日に開催されていた。現在では、少し離れた場所に福徳廟 (後述) を建て、そこで祭祀を行なっている。

球陽外巻 遺老説伝には名蔵村の御嶽に関わる次の様な話が記されている。

昔、八重山の名蔵邑に三人兄妹がいた。兄の名は発金 (ハツガネ)、弟は玉皿 (タマサラ)、妹は思務本 (オモト) と言った。兄の発金は手に負えない乱暴者で悪知恵がよく働き、いつも自分の力を自慢していた。信仰心もなく、神などはいないと日頃から豪語し、何事にも腕力に訴えて暮らしていた。そんな鬼のような男で、人々を虐めて喜んでいた。人々から邪魔者扱いされ、嫌われていた。
そんな折、思度大主 (オモトアルジ) という女神が発金の妹の思務本に乗り次の御託宣をした。「私たち姉妹三人は、大和の国から沖縄に渡ってきた神です。姉は、首里城の東の弁ヶ嶽に住み、神威を現わして世の人々を救っております。私と妹は、久米島に渡って、別々の山に住んでいましたが、私は程なく、この八重山に渡って来ました。そして思度嵩 (オモトダケ) に住み、諸々の神たちから大主と仰がれています。そして八重山諸島の守護神となって、世の人々を、善く教え導くのが、私の務めです。」これを聞いた発金は遮って、高慢無礼に馬鹿な話で信じないと嘲り笑って罵しり、神の力を現して、山に住む大きな怪物を見せてみろと言った。
妹の思務本に池唐 (イケトウ)に、行くようにと言われ、発金はそこに行ってみた。そこには七尺ばかりの大猪が森の中から駆け出して来て襲いかかってきた。発金は大猪を殴りつけ生捕りにし、家に持ち帰り殺して食べてしまった。発金は笑みを浮かべながら、威張りながら、思務本に次は海の怪物を見せろと言ったところ、思務本は、潮嶺 (シーラ、スーンニ) の地に行くようにと言った。発金がそこへ行くと、それまで静かだった大海原が、突如大波が逆巻き、全長十丈はあろうかという大鯖が、躍り上がった。発金は海に飛び込み、荒れ狂う波の怒濤の中を泳ぎ、大鯖と大格闘をして、打ち殺して持ち帰り、食べてしまった。
発金は思務本に神の姿を見せろと迫った。思務本は山海の怪物を見せたにもかかわらず、それでもな神の存在を悟らない愚かな兄に、呆れ果て、神は霊で人の目に見えるように姿を現すことはない諭すも、発金は聞き入れず、思務本は
仕方なく、発金を伴って思度嵩を登って行った。頂上に着くと豪華で立派な御殿があり、そこには、荘厳な神座があり、美しくも気高い女神が、そこに座っていた。女神は発金に 「お前は、神を信じないばかりか、却って逆に、神を散々汚(けが)すことばかりしてきた。やむを得ず、こうして姿を現してお前に見せた。これでもうお前も、神の存在を認めるしかないであろう。取り敢えず、お前には糠の御馳走することにする。」と言い終わらぬうちに、空から、霧雨のような米糠が降ってきた。発金は驚き、じっと神を見ていましたが、御殿も神座も女神の姿も跡形なく消え失せてしまい、そこには古い老木が立っていた。不思議を目の当たりにした発金は、後も振り返らず、慌てふためき、夢中で山を下り、我が家に逃げ帰ったところ、体中に虱が湧き血を吸る。払えども何処からともなく湧き出してくる。発金は、転がり、のたうち回り、もがき苦しみ、呻き続け半死の状態になった。突然、発金が怒り出し、刀を抜き、妹を刺し殺してしまった。発金は、虱の餌食になり、もがき苦しみ二、三日後に息絶えた。発金の屍は石となり、名蔵野に横たわっている。妹の思務本の遺体は、神が降臨して思度嵩岳に召し上げられ、人々により、神として思度嵩は厚く崇められるようになった。
二男の玉皿は信心深い男だったが、兄と妹の出来事以来、ますます神を信じ、名蔵の地の周囲を石で囲って、照添明照志神 (テルシイアケテルシカミてる) として祀った。その後、この神は島中の人々から、尊信を集め、参詣者が後を絶たなかったという。


水瀬御嶽 (ミズシオン)

名蔵御嶽の西側にも森が畑の中あり、その中に水元の神として信仰されている水瀬御嶽 (ミズシオン) が安置されている。神名は 白石御嶽、名蔵御嶽と同じく「照添照明し」 で於茂登岳の神の天照らすの神 (ウムトゥティラス) を祀っている。イビ名は 「水瀬大あるし」 とあり、水をつかさどる神の於茂登岳をイビとして祀っていると伝えられる。

森に入っていくとその先に鳥居が見えている。

鳥居の手前、左側には祠があり、その中には石が三つ置かれている。この祠の情報は見当たらないが、石が三つあるので火ヌ神 (ピヌカン) だろうか?その反対側には巨石が横たわっている広場がある。香炉は無いのだが、大きなシャコガイが置かれている。シャコガイは魔除けとして拝所に置かれることがあるので、この巨石も拝所の様だ。資料では水瀬御嶽には香炉が三つ置かれた大石があり、ナカダンと呼ばれ、イビをなしているとあった。大石の上には香炉は見当たらないが、これがそうだろうか

鳥居の先の木の根元に小さな祠がある。祠の横にもシャコガイがあった。この水瀬御嶽では雨乞いのミズシの御願が行われていた。


石垣福徳宮

県道211号線 (新川白保線) から名蔵ダムへの道があり、その道沿いに土地公として知られる福徳廟が建てられている。この廟ではその土地や人々の暮らしを守る土地の神であり、商業活動や農業、建設の守護神としての土地公と呼ばれるを祀っている。

土地公は福徳正神 (俗名 張福徳) で、紀元前1134年の周の武王の時代に生まれた人物で、人柄は誠実温厚で、徳業をよく積み、36歳の時、朝廷の税務担当官に就き、官吏になってからも、常に清廉公正で、人々の生活をよく守っていたため、民衆に深く親しまれていた。死後、後任の税官が悪行の限りを尽くして民を搾取し続けたため、一人の黄民が張福徳の恩徳を懐かしんで毎日朝夕拝んでいたところ、次第に豊かになっていったということから、人々は「土地公」として祀るようになったという。

20世紀初頭には台湾は日本統治下だった事から、台湾から西表の炭坑で働く労働者や石垣島での農業関連の移民が入植している。第二次世界大戦後、日本籍から外され台湾に帰郷するもの、石垣島にに残った人々がいた。その後も技術導入などで八重山へやってくる人も少なくなかった。日華断交の前後には多くの人々が日本国籍を取得しており、現在は日本社会に溶け込んでいる。この台湾系の人々が新天地での土地の守り神として信仰するのが土地公だった。名蔵や登野城の嵩田地区に入植した人々にとって、当初は土地公の神像や祭祀を行なう施設もなかった点ので、名蔵御嶽を借りて儀礼を行っていた。土地公の祭祀では豚を丸ごと供える「豚祭り」もあり、地元の祭祀行事とは異なっていた。地元民からは御嶽に生物を供えられては困るということで、別の場所に土地公廟を建立すべきという議論も起こっていた。台湾系移住民が個人で神を拝んでいたこの場所を華僑会に提供し、極彩色の台湾形式の廟が建立され、2021年から土地公祭は名蔵御嶽から移して行われるようになっている。



名蔵村の散策は終えて、次の訪問地として川平を予定していたが、黒い雲が広がっている。きっとこれから雨になる。遠方の川平まで行くよりは、宿に向かって、雨の具合によって、未訪問だったスポットを見ながら散策を継続することにした。

名蔵からは登野城の嵩田地区に行き、バンナ公園経由で宿に向かう。案の定、この後、三度にわたって大雨に遭遇。幸いにも、近くに東屋があり、雨に濡れる事は無かった。今日後半に訪れたスポットは、過去の当該訪問記に追記する事とした。


参考資料