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幕末島津研究室

井伊直弼と条約勅許

2026.04.26 08:00

開国か鎖国か

 前回、言い出したら聞かない強情者だったと紹介した井伊直弼ですが、地元彦根では「日本を開国に導いた偉人」として高く評価されています。

「欧米列強の圧力が迫る中、冷静に現状を分析し、自分の命をかけた決断によって開国に踏みきった偉人」と書かれたホームページもありました。

ここで少し気になるのが、分析の内容です。

というのも個人的には、慶喜が語っていた「断には富みたれども、智には乏しき人」という言葉が引っかかっているからです。

井伊大老は条約締結に関して、どんなメリット・デメリットを比較考量したのか。

それを知りたいと思っていたら、歴史学者の松浦玲氏がその当時の幕府の判断についてこのように書いているのを見つけました。


戦争になるのは困るからできるだけ穏便に、というのは、紀州の慶福を支持する勢力である。
開港したいわけではないが、開港か鎖国かよりも、徳川の現体制維持の方が大切で、現体制が崩壊するかもしれない危険を犯すよりは、先方の言うとおりに開港したらどうかというものである。
安政四年末の段階では、溜間詰譜代大名はこの説にまとまっており、十一月二十八日、連名の建白書を出す。
まとめたのは井伊直弼である。
【松浦玲『徳川慶喜 増補版』中公新書】


溜の間(たまりのま)というのは江戸城で家臣最高の席といわれ、井伊家(35万石)のような譜代大名の重鎮や会津松平家のような親藩で10万石を超える石高がある藩か、老中OBが詰める部屋です。

徳川幕府の大臣に当たる老中はだいたい5万石~10万石の譜代大名がつとめますから、「溜の間詰譜代大名」は老中よりも家格が上の大名になります。

この部屋の大名たちは将軍の政治顧問のようなものです。

井伊直弼が大老になるのは安政5年(1858)4月ですから、安政4年末時点では幕府の役職には就いていません。

当時溜の間詰めだった井伊直弼がとりまとめた建白書は、いわば幕府の政治顧問の意見表明にあたります。

その政治顧問たちが選んだのは、リスクをおかさず現体制を維持することでした。

彼らにとっての関心事項は、日本をどうするかではなく、現在のまま徳川幕府を存続させることにあったのです。

(このあたりは、現在日本の近隣にある某国がとっている方針と共通するものを感じます)

国内の多数派である攘夷主義者が反対しているから外国と通商をはじめるのは気が進まないものの、下手に戦争して幕府が崩壊するリスクを犯すよりは、先方の望むように開港して外国貿易をはじめる方を選んだということです。

ところで、この時の「先方」というのはアメリカでした。


ハリスのおどし

アメリカの初代駐日領事として下田に駐在していたタウンゼント・ハリスは、当時中国で起きていたアロー戦争(イギリスと清が戦った、第2次アヘン戦争)を引き合いにだして、

「イギリスはこの戦争が終れば次に日本を狙ってくるはずだから、イギリスの圧力で不利な条件をのまされる前に日米間で条約を結んでおき、それをイギリスにも適用すればいい」

と幕府に持ちかけていたのです。


タウンゼント・ハリス(幕末・明治・大正回顧八十年史)


国際情勢にうとい幕府はハリスの言葉を信用し、戦争終結前に条約を結んでおきたいと思う一方で、国内の攘夷派から猛反発を受けることも恐れました。

そこで起死回生策として出されたのが、攘夷派が信奉している天皇の許可を取りつけることでした。

孝明天皇が賛成しているのであれば、攘夷派も反発しないだろうと考えたのです。

安政5年(1858)1月、老中首座の堀田正睦(まさよし)は天皇の勅許を貰うために上京しました。

徳川幕府は元和元年(1615)に禁中並公家諸法度を定めて以来、朝廷をコントロールしてきました。

朝廷はこれまでずっと幕府の決定を追認してきたので、今回も問題なく承認してくれるだろうと楽観視していたのです。

ところが思いがけない事態に遭遇しました。

これについて、東大史料編纂所教授の本郷和人先生と国際日本文化センター所長の井上章一先生の対談が面白いのでご紹介します。


<本郷> 幕末、ペリーが来航した時、江戸幕府は日和った。
開国を決断したにもかかわらず、大老・井伊直弼(老中・本田正睦の間違い)は幕府の決定に箔をつけるために、朝廷におうかがいを立ててしまった。
本当は、おうかがいを立てる必要などまったくなかったのです。
そうしたら、大の外国人嫌いだった孝明天皇が「ノー」と言ってきたわけです。

<井上> 名目だけしかないと思っていた会長のところへ判子をもらいに行ったら、「いやや」と言われてしまったわけやね。
井伊(堀田の間違い)は、事前に事務レベルで折衝をしていなかったのでしょうか。

<本郷> たぶん、していなかったでしょう。
事前に折衝をしていたら、もうすこしやり方があったでしょうから。
幕府というシステムの錆が出たように思います。
【井上章一・本郷和人『日本史のミカタ』祥伝社新書】


井上先生は建築畑で風俗史が専門のため、歴史学者とはちがう発想をされます。

お飾りだと思っていた会長に「いやや」と言われてしまった、というたとえがナイスですね。


井伊直弼の決断?

さて、孝明天皇が「いやや」と言ったために、デッドロックに乗り上げてしまった日米修好通商条約をどう決着させるか。

結局「断に富む」井伊直弼が、天皇の勅許なしでの締結を決断することになるのですが、直弼の独断ではなく、関係者が相談して決めたという証言がありました。

旗本でありながら譜代大名のポストである若年寄にまでなった優秀な幕吏、永井尚志(なおゆき)が明治21年(1888)に島津家事蹟調査員の市来四郎たちに語った話です。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています)


米国条約の談判、勅許を得ざりしを以て調印をゆるされず。
しかるに米人(ハリス)はこれを促がすこと厳しく、殆んど困惑せり。
よって目付中に下して調印可否の議を決せしむ、予等も預れり。
種々の論ありしも、遂に勅許を得ざるも調印して外患を避くべし、是れ京都に於て深く外国の事情を知らしめさざるに由るものにて、後にて十分御了解あるべく申し開くときは、なにぶん強いてお咎めを蒙るに至るまじ、との論にて決せり。
この発論者は跡部甲斐守(良弼:原注)、その間種々の議論ありしも、終に跡部の議にて決せり。
大老閣老等にもこの議に同意したるものなり。
跡部は大腹の人物なり、物事に拘泥せざる性質の人なり。
平生細事には頓着なく常に居眠り居るも、事あるに当りては十分に議論をなすの風ありき。
【「島津家事蹟訪問録 故永井尚志君ノ談話」『史談会速記録 第173輯』】


永井によれば井伊の独断ではなく事務方全員で協議してでた「無勅許調印」という結論を、責任者として承諾したというのが真相のようです。

井伊直弼は独断専行の人物のように思っていましたが、じつはそうでもなくて、この時は事務局会議を開催しています。

孝明天皇の事後承諾が得られなかったことから、井伊大老は勅許なしに条約を締結した責任を問われることになりますが、直弼の偉いところは責任から逃げなかったことです。

この点は現代の政治家も見習ってほしいものですね。