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幕末島津研究室

備蓄石油と常平倉

2026.05.03 08:00

物価安定が第一

 アメリカとイランの戦争でホルムズ海峡が封鎖されているため、石油の供給がとどこおって、世界経済に大きな影響を与えています。

日本は備蓄原油の活用や中東以外からの輸入拡大によって、ガソリンをはじめとするエネルギー価格の極端な上昇は押さえられていますが、ドイツでは一時ガソリンが23%、軽油にいたっては40%上昇したと報じられています。(「戦後最悪のエネルギー危機」ドイツも直面する燃料の高騰、割れる経済対策の“評価”、望まれる事態の鎮静化

エネルギー価格の上昇は家庭だけでなく全産業に悪影響を及ぼしますから、なにはともあれ戦争を早く終結させてほしいものです。

このように影響力の大きい物価は、現代社会ではエネルギー価格が筆頭でしょうが、幕末の日本ではなんといっても米の価格でした。

以前、「斉彬は米価を引き下げた」の記事で、島津斉彬が藩主となって真っ先に行なったのが、当時高騰していた米価を下げるために藩の貯蔵米を安値で放出したことだと書きました。

しかし、これは一時的に米価を引き下げる効果はあっても、物価安定策としてはじゅうぶんではありません。

そこで斉彬が考えたのが「常平倉(じょうへいそう)」の制度でした。


常平倉とは

常平倉というのは米の流通量を「常」に「平」準化させるための備蓄「倉」庫です。

豊作の年には米が市場にあふれて米価が下がるので、それを市価より少し高く買い入れて保存しておき、凶作で米が不足し米価が高騰したときに放出して価格を引き下げ、庶民の生活を安定させようとするものです。

もともとは古代中国で発案された制度で、日本でも平安時代などに行なわれましたが、普及はしませんでした。

斉彬は藩主に就任した嘉永4年(1851)秋が豊作だったことから、藩士の所得にあたる給地高や郷士(半農)の自作高である作得米を藩で買い取ることを通達しました。

給地高で10石以上受け取っている者からは1石につき2升、10石以下の者は同1升5合を囲い置く(1石以下は不要)こととし、作得米は1石につき1升を囲い置くことを命じました。

そうして12月20日までに囲い高を高奉行に届けさせて総量を把握して、藩が代金を支払った上で常平倉に保管し、凶作の年にはこの囲い米を安く払い下げるのです。

こうしてスタートした常平倉の制度ですが、その施行にあたって、いかにも斉彬らしい指示を加えています。

それは執行する役人の人選についてでした。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて読み下し、一部漢字を平仮名にして、句読点をおぎなっています。原文はこちらの488頁)

法はいたって易く候らえども、その法を能く取扱い候人物は少なきものの由、古来より申し伝え候間、折角念を入れ候て、常平の常平たるよう、取り計らい専一に候。
(中略)
掛り役々の義も、人柄よくよく吟味の上、常平法取扱いは勿論、遠郷迄も趣意丁寧に申し諭し方行き届き候様これ有りたし。
はたまた抜き米の儀は前文にも申し述べ候ごとく、以来厳重取締り勿論の事に候。
しかしながら心得違いの者これ有り、権威につのり、非道の取締りいたし候ては、かえって諸人の迷惑にも相成り候間、遠郷等取締り申し付け候人柄は、別けてよくよく吟味これ有るべく候。
この段、掛り役々末々まで、心得違いこれ無きよう申し達し候、以上。
【「二二二 常平倉創設並御書取付事実」『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』】

斉彬は、

「法律を定めるのはたやすいが、その法律を適切に取り扱える人物は少ない。

これは昔から言われていることなので、念入りに検討して、常平倉がきちんとワークするように取り計らうことが肝要だ」

とした上で、

「担当の役人については、人柄をよくチェックして、法律の施行はもちろん、遠隔地の村々にまで法律の趣旨が行きわたるよう、ていねいに申し渡すようにしたい」

「前文(省略)でも述べたように囲い米を逃れて藩外に売り渡す『抜き米』を厳重に取り締まるのはもちろんだが、勘違いして権威を振りかざし非道の取締りをしたのでは、かえって人々の迷惑になるので、(藩庁の目が届きにくい)遠隔地担当の役人の人柄については特によく調べて、人選を誤らないようにせよ」

「以上のことは、常平倉を担当する末端の役人まで徹底し、心得違いがないように申し渡しておく」

などと細かく言い渡しています。

これは、役人たちが乱暴な運用をして、せっかくの良法を悪法にしてしまわないようとの配慮でしょう。


「常平倉跡の碑」(『南九州新聞』記事より)


常平倉のその後

このようにして始まった常平倉ですが、米の買取や入れ替えを毎年継続していかないと意味がありません。

そこで、維持管理のための仕組み作りを家老たちに命じたのですが、これが進まなかったようで、翌嘉永5年(1852)2月に伊達宗城に出した手紙の中で、次のようになげいています。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて読み下し、一部漢字を平仮名にして、句読点をおぎなっています。原文はこちらの856頁)

政事向きも、差し見得宜しからざる義も、家老共にも心附き候様子ながら、江戸の聞こえを恐れ候間、とかく延びがちに相成り候には困り申し候。
常平法取建之儀、なおまた書面にて大意申し達し、折角吟味いたし、永久連続の処申し談じるよう申し付け候えども、いまだ吟味済み兼ね申し候。
この儀はきっと取り計らい候考えに御座候。
【「四四六 伊達宗城へ書翰」『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』】

「これまでの誤った政策を改めようとして斉彬が打ち出す新政策について、家老たちも内心は良くないと気づいているようすだが、へたに動いて幕府から注意されることを恐れ、先送りにするので困っています」から始まり、

「常平倉の維持については、これもまた大意を説明したうえで、よく検討して永続化策を提案するように申し付けたのに、いまだに検討が終りません」

と嘆き、

「これはきっとやらせる考えです」

との決意を述べています。

高市首相も選挙で公約した「食品の食費税を2年間ゼロにする」について、事務方の動きが悪くて困っている雰囲気ですが、斉彬と同じ状況かも知れません。

それでも斉彬は常平倉の制度を軌道に乗せることには成功しました。

上の写真は、鹿屋市高須町にある「常平倉跡の碑」です。(2023年11月16日の南九州新聞記事から借用しました)

ただし続いたのは斉彬存命中だけで、没後は廃止されてしまいました。

さて、高市首相の消費税ゼロはどうなるでしょうか。