「統合は、起こるもの」シリーズ①Carl Jung編
「自己統合」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。
心理学では、「自分の中にあるさまざまな要素——たとえば思考、感情、身体感覚、価値観、過去の経験などが、自分を構成するひとつの“全体”として、まとまりを持つこと」を指します。
自己統合が進むと、内側のズレや分断がやわらぎ、その結果として、深い自己一致の感覚が生まれます。
この自己一致感は、「自分らしく生きたい」と願う私たちにとって、到達したい感覚のひとつではないでしょうか。
「統合」と聞くと、それに向けて“何かをすること”、例えば特別なワークや学びが思い浮かぶかもしれません。
しかし実際のところは、なにかしようとするその“力みを抜くこと”から始まるのは、あまり知られていません。
このシリーズでは、「自己統合は、起こすのではなく“起きること”である」というテーマで、その在り方や進み方について、私自身の経験を踏まえながら、さまざまな視点と言葉とともに見ていきたいと思います。
統合とは「良くなること」ではなく、「分けなくなること」
— Carl Jung に学ぶ統合の本質 —
私たちは「統合」と聞くと、
どこか“整っていくもの”をイメージします。
・バラバラだった自分がまとまる。
・未熟さがなくなり、安定する。
・一貫した自分になる。
その方向に進めば、もう揺れなくなる。
そんな期待が、どこかにあるかもしれません。
けれど実際には、どれだけ整えても、どこかが残る感覚があります。
理解もしているし、言葉にもできる。
行動も変わっている。
それでも、同じ場所に戻る感覚…。
このとき私たちは、「まだ何かが足りない」と考えがちです。
もっと深く向き合えばいいのかもしれない。
もっと手放せばいいのかもしれない。
もっと良くなればいいのかもしれない。
そうして、さらにdoingを重ねていきます。
けれど、そもそも統合とは“良くなること”なのでしょうか。
Carl Jung(カール・ユング)は、統合(個性化)のプロセスについて、こう述べています。
“The reconciliation of the opposites is a central problem of the individuation process.”
(対立するものの和解こそが、個性化プロセスの中心課題である)
ここで言われているのは、「より良い自分になること」ではありません。
そうではなく、自分の中でこれまで分けてきたもの、
たとえば強さと弱さ。愛と攻撃性。正しさと未熟さ。
こういった対立する二つの価値観が、同時に存在することを許すこと。
良い自分になることでも、影を消すことでもなく、両方が存在できる状態に変わること。
よく陰陽統合といいますが、光と共に影を抱けたとき、人はその全体性を大きく広げていきます。
私たちはつい、良くない状況を変えようとします。
ネガティブを手放し、ポジティブに寄せる。
未熟さを乗り越え、成熟へ向かう。
矛盾を解消し、一貫性を持たせる。
けれど、どちらかの側面だけを見ようとする動きは、私たちの内側に切り離された側面(シャドウ)を生み出します。
そしてそのシャドウが、私たちの目の前に繰り返し、望まない現実を映し出してしまいます。
だから統合で大切なのは、何かを整えるのではなく、全体を包む“場”としてあること。
Doingで整理するのではなく、Beingによってほどける状態のなかで、分けて見ていたものが、分けられなくなることです。
この変化が私たちが自然に行う「doing」では起きません。
どれだけ努力しても、どれだけ理解しても、「分けている前提」のままでは、その内側で整え続けることしかできません。
なぜならそれは、自我が自我を扱う、同じ前提のなかで起きているものになるからです。
必要なのは、自我を含んだまま在る“セルフ”の視点に立つこと。
セルフの視点が、自我を優しく包むとき、そこに全体としての調和が生まれます。
統合は、どこから見ているかという“位置”が変わったときに、 自然に起きてしまうもの。
思考や感情、身体、神経系、価値観やアイデンティティ。
それらすべてがわたしを構成するひとつの全体として感じられるとき、深い自己一致とともに在る、Beingがうまれます。
次回の記事では、その「位置が変わる」とはどういうことかについて、もう少し具体的にみていきます。