「統合は、起こるもの」シリーズ②Ken Wilber
心理学における「自己統合」とは。
それまでバラバラに機能していた内側のさまざま要素が、矛盾を含んだまま一つのシステムとして機能することを指していて、生きやすさや自分軸にも繋がるプロセスです。
自己統合が進むと、内側のズレや分断がやわらぎ、その結果として、深い自己一致の感覚が生まれます。それは、「自分らしい生き方」の根っことなってくれます。
「統合」と聞くと、それに向けて“何かをすること”が思い浮かぶかもしれません。
しかし実際のところは、なにかしようとするその“力みを抜くこと”から始まるのは、あまり知られていません。
本記事では、さまざま解釈が生まれやすい「統合」について、私自身の経験と、識者の言葉を借りながら、紐解いてくシリーズ第2弾をお届けします。
統合とは「超えること」ではなく、「含んだまま超えること」
— Ken Wilber に見る統合の構造 —
私たちは何かに行き詰まったとき、多くの場合「乗り越えよう」とします。
過去を手放す。
未熟な自分を卒業する。
より高い意識に移行する。
そこにはいつも、「今のままではいけない」という前提があります。
そしてその前提のもとで、 変化を起こそうとします。
これはとても自然な流れで私自身、一生懸命に取り組んできたことですが、 同時に、ある限界も持っていました。
本記事ではその限界に触れていきたいと思います。
Ken Wilber は、発達と統合の関係を、とてもシンプルな一文で表現しています。
“Transcend and include.”
(超えて、かつ含む)
この言葉は、統合の構造をそのまま表しています。
私たちは「超える」ことには慣れています。
できなかったことをできるようにする。
知らなかったことを理解する。
そうやって、より良い自分になるよう、より高い視点に移動するよう、努力してきました。
けれどここには、ひとつの落とし穴があります。
超える過程で、それまでの自分を“切り捨てて”しまうことです。
たとえば、
未熟だった自分。
感情的だった自分。
弱さや依存心を持っていた自分。
多くの場合、これらは不要なもので、そこから距離を取ろうとします。
距離を取ることができれば、「過去のもの」として扱います。
それは一見、前に進んでいるように見えます。
けれど切り捨てられたものは、形を変えて残り続けます。
一方で、何も変えなくていい、このままでいい、とすべてに見ぬふりをすると、今度は動きが止まってしまいます。
その状態に留まると、消化できないまま、停滞することもあります。
どちらも心地いいものではありません。
大切なのは、「含んだまま、超えること」。
私たちは、超えるためのDoingは得意です。
手放し、書き換え。
過去を消し、新しい自分で進んでいく、という方法に取り組んでみたことがある人も多いと思います。
けれどこの「超越」だけでは、統合は起きません。
以前の私は「じゃあ全部を受け入れよう」 「ちゃんと過去も含めて自分を受容しよう」 と考えました。
それはある程度までは機能してくれていましたが、盲点だったのは、それもやはりdoingだった、という点です。
含もうとするかぎり、そこにはまだ分離があります。
含める側と、含められるもの。
その構造がある限り、完全にはほどけることはなく、同じ場所で整え続けることしかできませんでした。
では、どうすればいいのでしょうか。
ここで大切なのが「位置」の視点です。
「それをしているのは誰か」
そう問いが立つとき、見ている位置そのものに、わずかな揺らぎが生まれます。
位置が変わると、それまで対立していたものが、対象として見られるようになります。
このとき、これまでどうにかしようとしていた自我たちが、スッと力を抜く瞬間が訪れます。
そうすると、善か悪か、白か黒か、“どちらか”だったものが、同時に見られるようになる。
このとき、何かを統合しようとしなくても、最初から含まれていたような、質の変化が感じられるようになります。
この移動は、 doingによって起きるものではありません。
分析や意味づけの動きが静かになったとき、含めようとする動きが静かにほどけたときに、統合は起きます。
どれだけ意識しても、 どれだけ丁寧に取り組んでも、「含もうとしている限り」 そこにはまだ分離がある、という矛盾を含む世界から、統合の世界へ。
「位置が変わる」とき、私たちには具体的に何が起きているのでしょうか。
次の記事では、この「位置が変わる」ときに実際に何が起きているのかを、もう少し具体的に見ていきます。