トラウマと非二元 ──「分離がほどける場所」で起きていること
トラウマと非二元。
この二つは、まったく異なる領域のものとして語られることが多いかもしれません。
ひとつは、過去の傷や神経系の反応としての「トラウマ」。
もうひとつは、「私」と「世界」を分けていた境界がほどけていくような、「非二元」の感覚。
ひとつはとても身体的で、現実的なもの。
もうひとつは、どこか抽象的で、スピリチュアルなもの。
一見すると、関係のないもののように見えるかもしれません。
けれど実際には、この二つは深いところで繋がっています。
それは、「分離」がほどけていく場所です。
トラウマとは、単なる過去の出来事ではありません。
それは、身体と神経系に残り続けている、”終わりきらなかった防衛”です。
危険を感じたとき、私たちの身体は瞬時に反応します。
緊張する。
固まる。
警戒する。
相手の顔色を読む。
自分を守るために、自分を抑える。
そうして「安全」と「危険」を分けながら、私たちは生き延びようとします。
本来、その反応は状況が終われば自然とほどけていきます。
けれど、強い衝撃や、長いあいだ続いた緊張の中では、その防衛が完了しないまま身体に残ることがあります。
すると、“今”には危険がないはずなのに、身体だけが反応し続ける。
人といると緊張する。
なぜか安心できない。
些細なことで傷つく。
頭では大丈夫だとわかっているのに、身体がそう感じられない。
過去の防衛が、現在にも繰り返されていくのです。
ここで起きているのは、「分離」が現実として立ち上がり続けている状態とも言えます。
一方で、非二元とは何でしょうか。
それは、何か特別な能力や、神秘体験のことではありません。
むしろ、「どこから世界を見ているか」が変わることに近いように感じます。
思考が浮かぶ。
感情が動く。
身体が反応する。
それでも、それらに完全に飲み込まれるのではなく、“起きているもの”として見えている。
そのとき私たちは、ふと気づきます。
自分と世界を分けていた境界は、絶対的なものではなかったのだということ。
分離は、“現実そのもの”というより、現れては消えていく体験のひとつだったのだ、ということに。
ただ、ここで大切なことがあります。
非二元的な気づきが起きたからといって、身体に残っている防衛まで一瞬で消えるわけではありません。
一時的に深い静けさを感じることはあります。
世界との境界が薄れ、安心感に包まれるような感覚が訪れることもある。
けれど、人間関係の中に戻ると再び反応が起きる。
身体が緊張する。
思考が物語を作り始める。
そんな経験をしたことがある人もいるかもしれません。
これは、「気づきが足りない」という話ではありません。
意識の位置は開いていても、身体や神経系が、まだ“分離が必要だった世界”を生きている。
ただそれだけのことです。
でもそこを明確に指摘する言葉がまだ少なく、さらなるワーク、さらなる努力に進む人も少なくありません。
だからこそ、非二元を“理解”として使い始めると、少し繊細なことが起きます。
「すべては完璧」
「問題は存在しない」
「ただ幻想なだけ」
こうした言葉は、ある位置から見れば真実でもあります。
けれどその言葉で、身体の反応を見ない。感情を感じない。関係性の違和感をなかったことにする。
そんなことが起き始めると、静かに現実との断絶が生まれていきます。
いわゆる、スピリチュアル・バイパスです。
“位置”は開いている。 けれど、“システム”は閉じたまま。
そういうことが、実際には起こり得ますし、実際に言葉を失った時の私自身が、そういう時間を過ごしていたなと、振り返ってみて思います。
では、トラウマと非二元はどう関わっているのでしょうか。
私は、この二つは対立するものではなく、役割の違いだと感じています。
非二元は、「位置」を開いていく。
トラウマへのアプローチは、「身体と神経系」を整えていく。
このふたつが触れ合い始めると、少しずつ変化が起きてきます。
それは、
反応しても、以前ほど飲み込まれなくなる。
緊張があっても、その奥に静けさが残る。
人との関係の中で、身体が少しずつ安心を学び始める。
思考が、以前ほど絶対的なものではなくなっていく。
といった変化です。
これは、何かを無理に消しているわけではありません。
ただ、「分離」が以前ほど“現実”ではなくなっていくのです。
非二元が、ただの理解ではなく、身体を通した現実になっていくとき。
それは、特別な体験ではなくなっていきます。
どこか遠くにあるものでも、がんばって維持するものでもない。
自分の内側にあるものたちを静かに見守る、広大な背景となる。
そのとき、世界との関係性そのものが、少しずつ変わり始めます。
トラウマと非二元。
その二つが、身体の中で静かに出会っていく。
そうすると「変わらなければ」という緊張とは少し違う場所から、世界が見え始めることがあります。
それは何か特別な体験というより、すでに在るものに、身体ごと触れていくような感覚に近いのかもしれません。