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田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

説教20260503マタイによる福音書20章17-19

2026.05.03 10:08

「メシアみずから苦難を選ばれる」

 聖書

 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。

 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

説教

 キリスト教で結婚式を挙げたことのある人は、式の中で「誓い」をしたことがあるだろう。「□□□夫、あなたは○○○子と結婚することを誓いますか」と問われて感無量の思いで「はい、誓います」と応えるものです。右手を上げ左手を聖書の上に乗せるかたち、これは誓いと約束の様式であり、嘘や偽りを言わないという姿勢をあらわしている。例えば合衆国の大統領就任式とか裁判法廷また結婚式での証言ではこの誓いが求められる。ただこの誓いは「この時は嘘を言わなければ、破らなければ良いんでしょ」という禁止的な拘束力をもつものではない。「あなたは聖書に誓って」とか「神に誓って」というとき、そこにはわたしたちが真実の存在である神に対し真正面から向き合うことが求められている。嘘偽りのない真実の生き方が求められているといえる。誓いや約束はわたしたちの一生の生き方につながっている。

 『告白録』という自伝的神学書を書いたのはアウグスチヌスだが、その中で彼は生まれてから40歳に至るまでの自分の悪事や罪業、不道徳や放蕩、苦悩と迷いそして神との出会いなど、ありとあらゆる遍歴を書いて曝け出している。しかしアウグスチヌスは自分の一切の罪悪を告白することによってこそ彼を救う神への信仰を確かにしている。彼の告白とは自白ともいえよう。明るい太陽の光に照らされて自分の悪や罪、恥のすべてが白日の下に曝されたとき、ついにアウグスチヌスは自分を神に関係づけることができたのだ。すなわち告白とは懺悔であり、懺悔の中で自分が死ぬとき彼ははじめて新しく生きることを誓ったのだ。この告白は誓いとなり約束となる。

 キリスト教を「約束の宗教」という人がいる。つまり「神のみ」とか「人間のみ」ではなく、神と自分という二者の一生にわたる連帯関係、パートナー連携、もっとくだけて言えば密な親交関係がキリスト教だと言える。神と自分が相互に相手と自己を深く知る。キリスト教の信仰とは、神も人も隠し事も偽り事も全くなく結び合って人生を造る神と人間の関係だ。そしてキリスト教はその最初から、「誓い」をその一致点、中心として時代を歩んできたのだった。その「誓い」は「告白」とか「信仰告白」と呼ばれる教会の「合言葉」となっている。

 その「誓い」つまり「信仰告白」のもっとも古い具体的な形のものが新約聖書にすでにある。それは『ローマの信徒への手紙』10章9節の「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」という中の「イエスは主である」という一言である。それはまた『フィリピの信徒への手紙』2章11節に「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」とも言うようにキリスト教全体中で基準化、共通化された公同の言葉となった。その一言の告白はやがて今日の『使徒信条』に結実し、どのキリスト教会の礼拝でも共通して告白されるようになった。

 しかしこの「イエスは主である」と言うほんとうに短い言葉に、当時のキリスト教を信じる人々は自分たちの一生をかけたのだった。「イエス、すなわち愛を教え十字架上で人間の罪を贖って死にそして復活したあのイエスこそがわたしの救い主キリストだ」と信じたのだ。イエスの愛はわたしを愛した。イエスの十字架の死はわたしの罪を贖った。そしてイエスの復活はわたしの復活そのものなのだと信じて、彼らは一生を生きようとしたのだ。

 しかし、十字架と復活のイエスこそわたしの主と言いあらわした告白の元となったものがある。それこそこの3度にわたるイエス自身の「告白」ではなかっただろうか。「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」。

 1度目はあのペトロがイエスに向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したときだった。イエスは自分がペトロから告白されたメシア、救い主であるとはほんとうにはどのようなことを為す者であるかをあからさまに表明したのだった。この時、弟子たちはまだイエスがメシアであり神の子であることの真の救いのわざが何であるかを知らなかった。そんな弟子たちにとってはこの受難と死と復活のイエス自身の告白は思ってもみない告白だったに違いない。

 だから2度目の同じ受難の告白の後でさえも変わらぬ弟子たちに対してイエスは「天国でいちばん偉い者」の在り方を教えたのだった。キリスト、メシア、救い主であることとは仕えること、自分を低くして子供のようになる神の子の姿を教えられた。

 そしてこの3度目の「受難と死と復活の告白」はよりいっそう苦しみの状況を詳細かつ具体的にあらわし、かつメシアでありキリストつまり救い主である自分イエスが何をなすべき存在であるかをつまびらかに弟子に伝えようとしたのだ。「祭司長たちや律法学者たちに引き渡される」は支配者や権力者に自由を奪われて神の名においてまで死を宣告されると言う。「異邦人に引き渡す」は異国ローマにイエスの死がまかされて侮辱と苦痛の上に十字架により殺されることを明らかにしている。

 自分を告白することが自分の罪を曝け出すことであれば、キリストを告白することは彼の死を直視することを意味する。そしてキリストの死を見つめることは、その死を自分に引き受けることを意味する。そしてキリストの復活は私を復活させることを知らずにはおれない。

 告白することは生きることに変わる。告白するとはキリストの苦しみと死と復活に自分を投入することだ。わたしの罪に向けられたイエスの死の絶望という灰の中を直視するとき、そこに自分の人生がイエスの復活と共に立ち上がっていることを知るだろう。