2026年 5月3日
5月に入る。山の木々は青々とし、もはや新緑が始まった頃の淡い色合いはない。ただ、新緑らしい鮮やかさはあって、山全体の景色が若々しく見える。これは、このところ雨が多い事も影響しているかもしれない。その雨も、けっこうな本降りになる。例えば、車から降りて自動販売機の飲み物を買うのでも、少々の小雨だったら傘もささずに済ませるが、このところの雨は、そんな事をしたらずぶぬれになる勢いがある。また風も強く、荒々しい感じだ。何でも気象庁は竜巻の発生も気にしていたとか。
まあそのおかげもあってか、ダムの水位も上昇してきた。まだ満水という所まではいっていないが、湖の底が見えるような状態から比べれば、だいぶ普通の光景に戻ったと言える。津久井湖の釣り舟屋さんが、湖の渇水でボートを水面まで降ろせずに休業状態だった話があったけれど、営業は再開できたのだろうか。
せっかくの連休なので遠出してみた。なるべく車の渋滞に巻き込まれないように早朝に出発したりして混雑を避けてみた。途中、昔ながらの温泉地を通りがかったのだけど、荒廃した様に衝撃を受けた。連休なのに観光客がごったがえすような混雑は無く、閑散としている。よく見ると宿泊施設も営業していない建物が目立つし、中には廃墟になりつつある建物もあった。
こういった温泉街って、昔は社員旅行とかで需要があったんだよね。今はそんなことをする会社も無いからか、荒れるに任せたままになっている。
以前からここで、これからの世の中に必要となる気風とか、人格について書いてきた。最近、その一つに「愚痴を言わない」を付け加えてもいいかなと思った。
なかなか自分の思うようにはいかない事は普通にある。というか、自分の望むとおりに物事が全て運ぶと考える方がムシが良すぎるだろう。人間関係が上手くいかない、仕事が上手くいかない、家庭環境が上手くいかない、どうしたらいいのか判らない、未来への展望が見えない、世の中上手くいかない事ばかり。そう思い詰めると、愚痴の一つも当然吐き出したくもなる。確かに、不満を心の中に溜め込み続けるよりは、時々、口から外に出す方が健康には良いだろう。
ただ、愚痴を言い続けると良からぬ副作用がある。愚痴を言い続けると、あれが悪い、これが悪いと言い続ける事になり、いつしか自分は、そのような「悪い事柄・悪い人」からいじめられ続ける被害者のような心境が固定化されてしまう。
それが更に悪化すると、「私は被害者だ、私は被害者だ」とひたすら言い続けるだけの、自己憐憫に浸るだけの人間になってしまう。こうなると、自力ではなかなか立ち直れない。
確かに職場は問題を抱えているだろう、人間関係にも問題を抱えているだろう、家族の中にも問題があるかもしれない。でも、「私は被害者です」という認識のままだと、自ら困難に立ち向かうきっかけすら掴めなくなる。
愚痴を言うのもいい。私は被害者だと認識するのもいい。でも大事なのは、被害者意識の奴隷にならない事だ。「奴隷」なんて言葉を使うと厳しいようだけど、あえてこの言葉を使う。
愚痴を言うのも、被害者意識に耽溺するのも、例えば5分と決めて、そこでパンと手を叩くか、顔を冷水で洗うかして気持ちを切り替えて、「確かに問題はいろいろある。では私はどうするか」と、問題を解決するための主体者としての自分に戻らなければならない。
自分の身のまわりの様々な問題に対して、自ら考えて知恵をしぼり、自ら行動して事態を切り開いていく。自分の人生にとって、自分の存在は世の中の奴隷でも、世の中に振り回される被害者でもなく、自分こそが主人公と自覚しなければならない。愚痴を言う状態をいつまでも続けずに、「ではどうするか」と意識を変えなければならない。
さて、こう書いてきて、確かに言えば簡単だし、だれでももっともだと思ってくれるだろう。でも、この意識の切り替えが大事だと自覚的に認識している人は、世の中の人間の、何割くらいなのだろう。案外、少ないのではないかと思っている。
その人が感じている苦しみにもよるが、苦しみを受ける内に、「ではどうするか」と考える事にも力尽き、諦観だけで生きている人だって、多いのではないか。
人間が前向きな気持ちでい続けるのにも、精神的・肉体的な体力が必要なのだろう。という事は、愚痴を言い続けずに気持ちを切り替えて、前向きな気持ちになって、自ら問題を切り開こうと思える人々を増やすには、どうしたらいいか、という話になってくる。
それは、常日頃から、人々が精神的・肉体的な体力を育むような環境が大事だと言う話にもなってくる。前回、「土壌」の話をした。良い作物は良い土壌から育つと。
人の心にも、良い土壌作りが大事と言う事になるのだと思う。