没頭力
私は小説を読むのが昔から苦手だった。
国語も苦手だった。
文章を書くのが好きな割には、人の書いたものを読むことを好きになろうとしなかった。
好きになりたかった。
私の憧れる人は小説が好きだったり、小説家であったりしたので、
小説を読まずに歳を重ねることがなんだか恥ずかしいこと、あるいは逃げのように思えた。
アニメや映画は好きで、
昔から今もずっと触れている。
再生を押せば、自分のコントロールとは無関係に情報が投げ込まれるから、ある意味で受動的であり、楽である。
しかし全くの受動的であるとそれはただ視覚的に視ているということにしかならないから、
本当は積極的に物語や登場人物の思考感情に意識を向けている部分の方が多いのであって、それは視覚を超えて心を使って観ているということになる。
面白い作品というのは自然とこちらの心が動き、観ることへの積極性が生まれてくるものだ。
一方で小説は、つまり活字というのは自分にとっては非常に強い積極性が求められるものと感じられてきたため、他のどんなエンタメよりもハードルが高く、手の付け難いものだった。
読み始めてしまえば面白く、最後まで読めた作品もいくつかはあるが、35年生きてきたにしては限られた数だ、と思えてしまう。
そもそも私は「物語」というものに対して、1文字でも見逃してはいけないと考えるところがある。映画の場合でもそれはそうで、ワンシーンでもカットされた(地上波での映画放映にあるような)映画を観ても、本当には観たことにはならないとまで考えてしまう。
自分が見逃した1分間に作者が意図した決定的な伏線があったとしたらどうしようと思い、トイレにも行けないのである。
簡単に言ってしまえば、物語を理解しようとするときになると決まって強迫的な性格が前に出てきてしまうのだ。
当然、小説というものは前から後に順に視線を動かして自分の意思で読む必要があるから、読み飛ばさないように注意しすぎて進めることができなかったり、時間がかかる。
そうすると疲れるからいったん閉じて、机の片隅に置いておくと別の物語(アニメや映画)に関心がいってしまい、数ヶ月放置された小説の内容は思い出せず、また最初から読まざるを得なくなってしまう。
そうなるくらいならもう、小説を読めるようになることは諦めてしまおうかとも思う。
同じ理由で事例論文も実は読むのが苦手である。
物語、というか事例と呼んでもよいのだが、
それらを自分の心に響かせて残していくのには、ある種の没頭力が必要だと感じる。
心理臨床家にとって、いや人間を理解しようとする場合にこの没頭力というものが肝要であるように思われる。
つまり目の前の物語(そこで起きていたこと)に注意を向けてあたかもその中にいるかのように体験する力のことである。
その後に周辺の位置(俯瞰)に戻ってくる必要があるのだけれども、まずは語りの中心に自分を投げ込まなければならないように思う。
そしてそれは自分とはまるで異なった人生を歩んできたように一見すると思われる相手に対しては、本当に難しいことである。
カウンセリングで共感不全が起きるのは結局のところ俯瞰の位置に居すぎて(ともすれば相手にまるで興味を持てないことと紙一重である)、相手の話を心を使ってきこうとしていないからであろう。
相手の語りをきくという行為は受動的でありながら、一方でかなりの積極性を持って臨むことが求められる。
とはいえこれが毎回できるわけではないのがカウンセラーが人間である所以であって、なぜ今回はできなかったのかを振り返りたくなるのが私の性格であり、強みであり弱みであるのだろう。
没頭させられることは割と簡単で、
没頭することが難しいのだ、とも思うことがある。
そこには物語・事例を理解するための受動性と積極性のバランスというテーマがある。
芸術作品に多く触れなさいと言っていた臨床心理学の先生はこれまでの人生で何人かいたが、
芸術作品というのはやはり誰かの表現欲求がこめられた物語・事例そのものであって、そこに没頭することによって得られる体験知があるということだろうと思う。
小説にはまさに人の内面が言葉で表されていて、名作といわれる多くの作品には深い人間理解に繋がる知が眠っているはずである。
こんなふうに言語化してみたら、
不思議と小説を読むことに挑戦してみたくなった。
こう読まなければならないという強迫性から自分を解放してあげることから始めようと思い、
KindleとAudibleを使いながら、
近頃、『ノルウェイの森』を読んでいる。
連休で少し時間ができたから、没頭について改めてこうして考えたのだった。
没頭して書いてみた。自分を理解しようとすることは出来るらしい。
もっとこれが自然に、他者に向けられるようになれるといいのだが。