性善説は脳みそお花畑じゃない
「井上尚弥 対 中谷潤人」のパブリックビューイングを見終えたら22時半だった。想定したより遅い時間だった。フルラウンドでとてもいい試合だったからだと思う。翌朝が早いので、急いで帰宅しようと新宿駅を早足で通り抜けようとした。
外国人らしい人が、私に声をかけた。日本語で書かれた手書きのA3の紙を広げて持っている。「私は留学生です。経済的に困っていてこのままだと勉強を続けられません。この紙袋の中のお菓子を買ってください」。彼は、紙袋を見せた。大袋入りであったろう個装の駄菓子がたくさん入っている。手を振って通り過ぎた。10メートル位歩いてからだろうか、心がモヤモヤして仕方なかったので戻った。「お菓子、要らないから」と千円札を紙袋に入れて、またすぐ改札口に急いだ。
かなりの確率で嘘なんだと思う。でも、1万分の1かもしれない、「もしかして本当だったら?」「ホントに言葉もろくに通じない外国で困っているとしたら?」がモヤモヤの正体だった。で、実行してから自分に言い聞かせるように考えた。「もし、嘘だったとしても、私の行動が、彼の今後に何かちょっとでも影響を与えてくれたとしたらそれで良いではないか。日本人って騙しやすいと思われたかもしれないけれど、あ、やっぱりこんなことしてちゃいけないと思ったかもしれない」
私は性善説を信じているし、信じたい。自分の経験から(記憶は塗り替えられるので、人から親切にされたことしか覚えていないのかもしれないが)も。だから、新宿の彼の場合も、万が一で本当であってくれたら良いし、嘘だったとしても良心が咎めていてくれたら良いと思う。英語で言えば「naive」だろうし、最近の言葉で言えば「脳みそお花畑」だろうけど。
最近、ルトガー・ブレグマンの「Humankind 希望の歴史」を読んだ。「人間の本質は善であり、だからこそ人類は危機を生き残れた」がメインの主張である。にも関わらず「善人が悪人になってしまう」のは何故かを、複数の視点から書いている。
なかでも印象に残ったのが、私が心理学の本をよく読んでいた頃に当たり前のように出てきた「ミルグラムの電気ショック実験」や「スタンフォードの監獄実験」が、きちんとした実験の体をなさず操作されていたこと。腹が立った。
また、ウィリアム・ゴールディングの小説「蠅の王」とは異なり、少年たちだけで無人島に漂流し長期間過ごさなければならなくなっても、決して野獣のようになって殺しが起きたりはしないこと。トンガの少年たちが実際に無人島に漂流し1年以上も少年たちだけで生活することになった時、皆が協力し、働き、怪我をした少年がいれば助けて応急処置を施した。面白いと思ったのは、当然喧嘩もするが、喧嘩をした場合に、喧嘩をした少年たちはそれぞれ島の反対側に行って怒りを鎮めたそうだ。4時間後くらいに彼らを連れ戻して、「オーケー、さあ、互いに謝れよ」と言って、友情を保ったそうだ。
コーチングの仕事をしていると、「人を信じる」場面に何度も立ち会う。コーチがクライアントの可能性も含めて全てを信じ切るのは当たり前なのだが、それとは別の話。
事業が動き始めた頃の経営者が、最初の壁にぶつかる時、たいてい人の問題が絡んでいる。一緒に共同設立した時、採用する時は「仲間だ」と信じる人を選ぶ。スキルも、人柄も。でも、日々、課題にぶつかりながら、試行錯誤しながら事業を動かしていると、「仲間感」が薄れる場合が多い。言いたいことを言わなくなる。面従腹背になる。優秀で、「いいヤツ」ばかりが揃っているはずなのに、なんだか物事が動かない。チームが崩壊していく。
根っこにあるのは、信じることをやめていく、ということだと思う。相手が自分の本音をどう受け取るか、証明できないから。でも、これは、証明できなくても信じるしかない。信じ合うしかない。
ブレグマンはこんなことも書いている。真実だと証明できなくても、信じるしかないものがある。友情、愛、信頼。証明できないから価値がない、じゃない。証明できないものを信じられるから、人はつながれる。
新宿の夜に千円を入れた時の私と、構造は同じだと思っている。正しいかどうかわからない。損をするかもしれない。それでも「もしホントだったら」で動く。
信じ合うことをやめた時、全部が止まる。