斉彬vs.直弼 ブレーンで大差
井伊大老のブレーンは二人だけ
以前「井伊直弼はただの強情者だった」の話で、井伊大老が安政の大獄を行なったのはブレーンがいなかったから判断を間違えたのだという説明をしました。
正確にはブレーンが「いなかった」のではなく、「ごく少数の人物しかいなかった」ということです。
維新の興奮もおさまった明治21年に、ジャーナリストで社会運動家でもあった島田三郎が『開国始末(井伊掃部直弼伝)』を出版しました。
島田は勤王派から違勅の極悪人と誹謗されていた井伊直弼の悪評を除くために、安政5年の開国(日米修好通商条約調印)の真相を明らかにして、井伊大老の施策が当時やむをえなかったことをわからせようとしたのです。
『開国始末』は井伊直弼を弁護するための書ですから、直弼のことを悪くは書いてません。
しかしそうでもない部分もあります。
直弼のブレーンについては、こう書かれています。
直弼の大政を執るに当り其の密議に参せしは新臣には長野(主膳)、旧臣には宇津木(六之丞)の二人ありしのみ。
其の他は藩老と雖も其の藩内の常務を掌るに止まりて一つも大政に与かりて補翼の任に当る者なかりき。
【島田三郎『開国始末』人物往来社 幕末維新史料叢書1】
長野主膳(義言:よしとき)は国学者で、部屋住み時代の直弼が師事していた人物です。直弼は主膳の才能を知り、藩主となった後、家臣にとりたてました(新臣)。
宇津木六之丞(景福:かげよし)は彦根藩士(旧臣)で、直弼の側役。
直弼が大老に就任したのちは、公用人となってつねに直弼の側近く仕えていました。
直弼の相談相手と呼べる者はこの二人しかおらず、彼を弁護したい島田も「直弼の独力政途に当り内外に良輔(よい補佐役)なかりしを見るべし」と書かざるを得ませんでした。
島田三郎(国立国会図書館デジタルコレクション)
斉彬のブレーンは「たくさん」
井伊直弼と対照的なのが島津斉彬です。
直弼のように田舎住まいから突然藩主になったのとちがい、斉彬は正室の長男なので、江戸生まれの江戸育ちです。
そのため若いころから、他の大名だけでなく、幕吏や学者などさまざまな人たちと交流してきました。
『鹿児島県史料 斉彬公史料第三巻』には、「御交際の広いことでは、当時の大名で比べられる人がいなかった」とあり、次のような人名が書かれています。(読みやすくするため現代仮名遣いにあらため、一部漢字を仮名に変えて、誤字を修正しています。原文はこちらの133頁)
御壮年の時分(二十七八、三十内外の御年齢:以下カッコ内はすべて原注)御懇交御往来の諸侯方には、
福岡侯(黒田斉溥)・八戸侯(南部信順)は勿論、金沢侯(米倉昌寿)・米沢侯(上杉斉憲)・徳島侯(蜂須賀斉裕)・福山侯(阿部正弘)・佐倉侯(堀田正睦)・富山侯(前田利声)・佐賀侯(鍋島斉正)・久留米候(有馬慶頼)・福井侯(松平慶永)・宇和島侯(伊達宗城)・藤堂侯(高猷、津藩主)・高知候(山内豊信)その他小藩侯は多数、
あるいは旗本有名なる筒井(政憲)・川路(聖謨)・岩瀬(忠震)・羽倉(用九)・下曽根(金三郎)・江川(太郎左衛門)・井戸(弘道)などいえる有力者も数多参邸、御懇交御交際の広きこと当時の大小侯に比なかりしという。
その人々ことごとく一能一芸あるか、或いは識見卓越名望ある当時有名なる人士なりしという。
【「一一二 御懇交ノ大小侯及ヒ有名ナル人士交際セラレシ人名」『鹿児島県史料 斉彬公史料第三巻』】
同様のリストは斉彬公史料第一巻(152頁)にもあり、大名(紀州藩付家老を含む)が28名、幕臣(公家の家司を含む)が19名、漢学者7名、洋学者9名が挙げられていますが、こちらもみな当時有名な人物ばかりです。
有名人士からひろく知識を吸収
直弼のブレーンだった長野主膳と宇津木六之丞は、安政の大獄以前は無名でした。
大獄を行なわなければ歴史に名が残らなかった人物、つまり小物です。
いっぽう斉彬のブレーンは「当時有名なる人士」たちで、すでに名声を博している人物ばかりでした。
たとえば旗本の最初に名が出てくる筒井政憲は町奉行を20年もつとめ(通常は2~3年)、大岡越前とならぶ名奉行として高い評価を得ただけでなく、大目付格となってロシア使節との交渉を行うなど阿部老中の外交顧問的な立場にありました。
彼は斉彬の31歳年上で、島津家事績調査員の寺師宗徳は著書『贈正一位島津斉彬公記』の中で「(斉彬)公の学問の師たり」と述べています。
筒井は斉彬の相談相手の一人ですが、昌平坂学問所の学問吟味を甲科1席つまり首席で合格し、学問所御用として教鞭をとることもあったので、学問の師といわれても違和感はありません。
次に名前が出てくる川路聖謨は代官所の下級官吏の子でありながら勘定奉行にまで出世した才人で、「当時幕吏中屈指の名望家」とうたわれました。
ロシア使節来日時には幕府代表として、筒井と一緒にプチャーチンと交渉しています。
川路は斉彬と「ことに御懇交、時事談の友」で、折にふれ斉彬を訪ねてきていたそうです。
交際の幅広さは幕府官僚だけにとどまりません。
将軍の主治医(御匙)多紀楽真院とも親しく、篤姫が輿入れする際には大奥の動向などを教えてもらっています。
さらに高野長英や渡辺崋山といった洋学者、佐藤一斎や安井息軒などの漢学者とも交流がありました。
斉彬はこのような一流人士たちに交わることで、彼らの知恵を吸収したのでしょう。
島津斉彬が薩摩藩の教育を大改革したことで、薩摩から多くの偉人が生まれました。
井伊直弼が安政の大獄をおこなったことで、勤王佐幕を問わず優秀な人材が多数失われました。
「人を知らんと欲せば、すべからくその交わるところを見よ」という言葉があります。(『川路聖謨文書 第一』例言)
ふたりの違いは交友関係に起因したのではないかと、ひそかに思っている次第です。