にゃんにゃん探偵チャーリーの冒険 ~エクリチュール~・第9話『ワイエスの窓、あるいは静かなる幻影』
GWのある日のことです。空は少しばかり曇っていて、世界から色彩が失われたような曖昧な午後、私は東京都美術館で開催されている『アンドリュー・ワイエス展』に足を運びました。
展示の序盤、私の目を引いたのは『クリスマスの朝』や、カラスの死骸を描いた『冬の野』といった作品群です。それらは多分に表現主義的であり、画家の内面にある剥き出しの何かが、キャンバスの向こう側からこちらを注視しているような、奇妙な圧迫感がありました。
やがて作品は、私たちがよく知る「ワイエス的な風景」へと移行していきます。古い納屋の窓、あるいは半開きのドア。そこには乾いた風が吹き抜けるアメリカの田舎風景が描かれているのですが、私はそこに、アルフレッド・ヒッチコックの映像作品に通じるモダンホラー的な予感を感じずにはいられませんでした。
実際、そこには『幽霊』と名付けられた作品さえ存在します。窓から差し込む光、その中に飛び散った絵の具の飛沫が、私にはどうしても乾いた血の跡のように見えてしまうのです。
壁のザラリとした質感や、納屋の隅に置かれた鋤やロープ。安定した構図であればあるほど、そこに描き込まれた不穏な記号たちは、底知れない不安を私に抱かせます。それは私がヒッチコックの映画を知っているからなのか、それとも、ワイエスの描く風景そのものに、何らかの「不吉な予兆」が埋め込まれているからなのでしょうか。
美術館の外に出ると、今朝の曇り空は嘘のように晴れ渡っていました。上野公園には、ワイエスの後期の作品――例えば『納屋の猫たち』や『ぼろ袋』に見られるような、ヴィヴィッドで鮮烈な「明かり」が満ち溢れていました。
白川静の字源辞典『字統』(平凡社)を紐解けば、「明」という文字は、窓から月光が入り込む様子を表しているといいます。それは同時に、神明を迎え入れる場所でもあります。古くから素晴らしい為政者を「明君」と呼び、世を明るく照らすことを期待してきましたが、さて、現代の政治に目を向ければどうでしょう。奇しくもこの日は憲法記念日でした。
光は本来、何かを照らし出すはずのものです。かつて日本の経済を照らす象徴でもあった巨大タンカー「出光丸」が、現代の入り組んだ政治の荒波の中で入港を阻まれているというニュースを耳にするとき、私は暗澹たる気持ちになります。
明かりをもたらすべき「出光」が、その光を届けることさえ許されない。特定の政治家による強硬な批判や規律の叫びは、ワイエスの窓から差し込むあの「不安な光」のように、どこか私たちを脅かし、光そのものを遮ろうとしているように、私には思えるのです。
私たちのような都市生活者は、しばしば田舎の風景の中に純粋な美しさを見出そうとします。しかし、そこにあるのは決して無垢な静寂だけではありません。都会の孤独を抱えた私たちが、窓の向こう側に映し出すのは、自分自身の内側にある「失われたもの」の幻影なのかもしれません。ワイエスが描いた孤独な窓と、ヒッチコックが映し出した密室の恐怖。それらは今の私たちの社会と、どこか深い場所で地続きになっているようです。
さて、チャーリー。今夜は窓から美しい月明かりが入ってくるでしょうか。
もし月が顔を出したなら、その「明」という神明の光の中で、二人だけのささやかなパーティーを始めるとしましょう。あっ、どうも。岩崎(チャーリーの飼い主)です。