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一号館一○一教室

今村昌平 監督『にっぽん昆虫記』

2026.05.11 12:39

父ちゃん、
おれの乳だぞ。飲め!


796時限目◎映画



堀間ロクなな


 今村昌平監督の『にっぽん昆虫記』(1963年)がはじまって早々、だれもが息を呑むに違いない、ショッキングな場面がやってくる。



 主人公の松木とめ(左幸子)は東北の片田舎に生まれたが、それは両親が結婚してからふた月後のことで、母・えん(佐々木すみ江)が別のタネを宿していたことが明らかだった。しかし、オツムの弱い父・忠次(北村和夫)は自分の子と信じて疑わず、とめのほうもそんな父親を母親以上に慕った。彼女は長じて製糸工場で働きだしたものの、太平洋戦争が起きて、地主家の出征する三男のもとに足入れ婚をさせられたのち、実家へ戻って娘を出産する。その赤ン坊が乳を飲まないせいで両の乳房が張ったとめは農作業のあいまに着物をはだけてみせ、忠次はよろよろとむしゃぶりつくのだった……。



 ひとによっては目をそむけたくなるかもしれない。ここには、文化人類学のいうインセスト・タブーなどを持ちだす以前に、もっと根源的な男女の性をめぐる闇が横たわっているように思えるのだ。



 アリマキのオスはどことなく哀しく見える。たっぷりと蜜を吸って、動きも緩慢、豊満な身体のメスに比べると極めて対照的だ。オスは干からびたような、がりがりにやせた身体をしており、手脚も華奢だ。それをばたつかせながら落ち着きなくあちこちを走り回る。彼らにはするべきことがあるのだ。オスのアリマキの役割はただひとつ。秋が終わるまでに、できるだけ多くのメスと交尾をすること。彼らは一瞬の休みもなくメスの間を渡り歩いて、命が尽きるまでその勤めを果たさねばならない。



 分子生物学者・福岡伸一の著作『できそこないの男たち』(2008年)の一節だ。福岡によれば、アリマキ(アブラムシ)のメスはふだんだれの助けも借りずに胎内から子どもを産み、その子どもたちもやはりメスで同様に世代を紡いでいく。ところが、冬が近づいてくると、あえて染色体の欠けたオスをつくりだして有性生殖により卵を生もうと、上記のような情景が繰り広げられるという。つまり、オスとは、寒くてエサの乏しい季節を乗り切るとともに遺伝的な多様性を確保するために用意された「できそこないのメス」なのだ。そのうえで、こんなふうに敷衍する。



 つまり、メスは太くて強い縦糸であり、オスは、そのメスの系譜を時々橋渡しする、細い横糸の役割を果たしているに過ぎない。〔中略〕なにごともなければメスは生物としての基本仕様をまっすぐに進み立派なメスとなる。このプロセスの中にあって、貧乏くじを引いてカスタマイズを受けた不幸なものが、基本仕様を逸れて困難な隘路へと導かれる。それがオスなのだ。

 ママの遺伝子を、誰か他の娘のところへ運ぶ「使い走り」。現在、すべての男が行っていることはこういうことなのである。アリマキのオスであっても、ヒトのオスであっても。



 かくして、林檎畑でとめの張り切った乳房を懸命に吸いたてる忠次の姿に、わたしはアリマキのオスを重ねあわせないではいられないのだ。



 このあと、彼女は敗戦後の混乱する世相のなかで、ふたたび勤めた製糸工場で妻子持ちの上司に言い寄られ、クビになったあとには中華料理屋のオヤジと関係を持ち、やむにやまれず単身上京してからは、新興宗教の道場で知りあった売春宿の女将のもとで働くことになり、そこで出会った問屋の主人をパトロンにして衣食住をせしめたあげく、ついには行き場のない女たちに呼びかけコールガールの組織を立ち上げて荒稼ぎにいそしむ。のみならず、ひとり娘の信子(吉村実子)もまた、母親の背中を追うように……。それは、まさに「太くて強い縦糸」の女たちのどこまでもしたたかな生きざまなのに違いなかった。



 そんなある日、突然、忠次の危篤の電報が届く。あの林檎畑の交わりから20年近くの歳月が過ぎ去り、故郷ではいまやすっかり老いさらばえた父親が死の床にあった。そして、とめの顔かたちを認め、たどたどしく「ちち、ちち……」と声を洩らすと、四十路の彼女はもはや周囲の目も気にせず胸元から乳房をつかみだすなり、その乾ききった唇にあてがってやるのだった。



 「父ちゃん、おれの乳だぞ。飲め!」



 その場面に、わたしはいっそう息を呑みながら、一種の感動に襲われたのだった。決して目をそむけてはならない、たとえ「太くて強い縦糸」のメスと「細い横糸」のオスのあいだであってもかろうじて愛の交流が成り立つ可能性の存在することを、ここに『にっぽん昆虫記』は示してみせたのだ、と――。