離婚、刑務所への面会、シングルマザーとしての歩み――それでも私が扉を閉ざさなかったわけ
このコーナーでは、世界のさまざまな場所で子育てに向き合う女性たちと語り合いながら、「みんなで育てる」という視点を探っています。
今回お話を伺ったのは、中国・江蘇省で語学学校を経営しながら、地元の日本人社会と中国社会との懸け橋となってこられた張艶(ジャン・イェン)さん。プライベートでは、大学生の息子さんを育てるお母さんでもあります。
語学教師として、中国で暮らす外国人たちの生活に長年寄り添ってきた張さん。私生活でも人とのつながりを紡ぎ続けながら、シングルマザーとして子育てに向き合ってきました。その歩みを支えてきた「つながり力」は、どのように育まれてきたのでしょうか。
その道のりを、ゆっくりとひもといていきます。
張 艶(ジャン・イェン)さん
出身地: 中国・江蘇省南通市
現在の居住地:中国・江蘇省南通市
お子さん:長男(大学生)
Webサイト / SNS:@南通市崇川区汉和外语培训中心 (RED), Kanwa13962949001(Tiktok)
―まずは自己紹介を兼ねて、張さんのふるさとについて教えていただけますか?
私は、江蘇省の如東市にある海辺の村で生まれました。一軒家がぽつぽつと続く農村です。不便なこともありましたが、工夫しながら暮らしていました。
実家前にて、お母様と
たとえば80年代の中国の農村では、家にお風呂がないところが多かったんですね。でもビニールを蚊帳のように吊るして、そこにバケツいっぱいのお湯を入れて、そのお湯で体を洗ったりしていました。そんなふうに家族みんなで工夫しながら生活していました。
―素敵ですね。工夫しながら暮らしていたご家族の温かさが伝わってきます。当時の生活のなかで、とくに心に残っている出来事はありますか?
おばあちゃんの家へ桃を食べに行くのが大好きでした。川沿いの家で、庭に桃の木があり、季節になると実がなるんです。枝から直接もいで食べる桃は、とてもおいしかったですね。近所はみんな親戚や知り合いばかりでにぎやかでした。当時はそれが当たり前だと思っていました。
―自然とともにある暮らしの風景が目に浮かんできます。そんな子ども時代を過ごされた張さんが、現在どのような生活をされているのか教えていただけますか?
現在は、江蘇省の南通市で「漢和外語センター」という語学学校を経営しています。2008年に開校し、中国語と日本語のコースを提供しています。中国語を学びに来るのは、日本人や韓国人のほか、欧米の方々も多く、スペインやロシア、フランスなどさまざまな国から来られています。私自身もレッスンを担当しながら、教材作りにも関わっています。また、留学の紹介やビザの手配なども行っています。
―とても幅広く活動されているんですね。語学学校の経営という道は、どのようにして進まれたんですか?
南通市は昔からアパレル産業が盛んで、日本との取引が多い地域です。そのため、日本語ができる人材の需要がとても高いんです。私も日本語を学び、上海の日本語学校を卒業しました。その後、江蘇省に戻り、南通市に新しくできた語学学校に就職しました。そこで一緒に働いていた日本人の先生から、あるとき声をかけられたんです。「張さん、一緒に学校を作りませんか?」と。
―素敵なお話ですね。
とても魅力的な話だと思いました。ただそのときは、ちょうど長男を出産したばかりのタイミングで、すぐに動くことができませんでした。そこで「1年間待ってください」とお伝えしたんです。彼女は本当に1年間待ってくれて、2008年に一緒に学校を立ち上げました。
クリスマスイブの決断——突然すぎたプロポーズ、その先にあったもの
―とても大きな転機となる出会いだったんですね。ただ、そのとき張さんはすでにご長男を妊娠されていた。このあたりから、子育てについても少しずつお伺いできればと思うのですが、まずは当時のことを振り返っていただけますか?
おそらく妊娠の前に、息子の父親との出会いからお話ししたほうがいいかなと。
―ぜひ、聞かせてください。
彼とは、最初に就職した語学学校で働いていたときに出会いました。20代のころです。そして結婚したのですが、結論から言うと失敗でした。
―そうだったんですね。
当時、貿易会社に転職したいと思って、ある日バスに乗って面接に向かいました。バスを降りて、会社のほうへ歩いていく途中、道端にスーツを着た男性が立っていたんです。私に向かって微笑みながら。まるで私を待っていたかのような雰囲気で。でも、知り合いではありません。ただその様子があまりにも自然で、私も思わず「你好」と声をかけてしまったんです。すると彼も話しかけてきて。いわゆるナンパですね。とにかく話が上手で、流れで携帯番号を交換し、その後はもう逃げられなくなって。猛烈なアタックが始まりました。
―まるで映画のような出会いですね。
それから、私の仕事場まで毎日車で迎えに来るようになって。しかも、運転中は前を見ないんです。ずっと私のほうを見てる(笑)。
―本当に張さんのことがお好きだったんですね。
まぁ、そうなんでしょうね。そして、その年のクリスマスイブのこと。その日も彼は車で迎えに来てくれたのですが、クリスマスで道が混んでいて、車を停められない場所だったので、オフィスの周りを何周もぐるぐる回りながら待っていたんです。「何時に終わるの?」と言いながら。ようやく仕事が終わり、彼の車に乗ると、「これからある場所に行く」と言うんです。「どこ?」と聞いても「行けば分かる」と。そして着いたのが、民政局でした。
―民政局というのは、どんな場所なんですか?
結婚証明書をもらうところです。
―えぇっ!
でも、よく考えてみてください。民政局は通常5時に閉まるんです。その日はクリスマスイブで、しかも終業後。私たちが着いたのは6時過ぎ。行っても意味がないはずでしょ。
―そうですよね。
……民政局の職員が、そこで待ってたんです。
―えぇっ! どういうことですか?
職員の方が二人、私を待っていたんです。でもね、いきなり結婚なんて言われたって無理でしょう?
―それはそうです、あまりに急すぎる。
しかもその日は雨で、車から降りるのも嫌で。「今日は無理でしょ、急すぎる」と車内でやり取りしていたら、職員の方が窓まで来て、「指紋を押すだけで終わるから」と。どうやらずっと待っていたみたいで。横では彼も「お願い、結婚してくれ」と。もう、半ば脅迫ですよね(笑)。今の私なら断りますが、当時は若くて、その場の流れに押されてしまい、結局押してしまいました。両親にも、すべて終わってから報告しました。
―なんという展開……。それまでに結婚の話は出ていたんですか?
具体的な話はありませんでした。「結婚してくれ」「幸せにする」といった軽い言葉はありましたけど。どこに住むかなどの現実的な話は一切なく、甘い話ばかり。
―それは、戸惑いますね……。
出会ったのが2005年の夏で、その出来事が同じ年のクリスマスイブですから。
―まだ半年も経っていないですよね。当時の中国では、そういうスピード感の結婚は一般的だったんですか?
どうでしょう。でも私も若くて、「こんなに自分を好きになってくれる人はもう現れない」と思ってしまったんでしょうね。他の人を選ぶのをあきらめてしまった。それで、この人にしようと決めました。
―若いとはいえ、張さんも大胆な決断をされましたね。
もともと私も大胆な性格なんです。一人っ子で、男の子のように育てられました。1982年生まれで、一人っ子政策が始まったころ。「重男軽女」の時代で、女の子でも男の子に負けないよう強く育てたいという親の思いがあり、「強くなれ」と言われ続けて育ちました。
―その時代背景のなかで育ってこられた強さですね。
そして親は、子どもが大きくなると口を出しません。都市に出たらなおさらで、何をするのも自分の自由です。結婚も同じで、親が止めても止められない。そういう環境で育ったので、自然と大胆になったのだと思います。
―早くから自立を促される環境だったんですね。そうしてご結婚されて、お子さんが生まれたのはいつ頃ですか?
長男を出産したのは2007年です。結婚から1年少し経ったころですね。新婚旅行でタイ、マレーシア、シンガポールへ行き、そうこうしているうちに妊娠が分かりました。
―そこもまた、スピーディーな展開ですね。
そうですね。妊娠中は夜中にトイレが近くなりますよね。毎晩夜中に私が起きると、彼はすぐにトイレへ行って準備をし、ティッシュを「どうぞ」と差し出してくるんです。まるで女王様を扱うように。まぁ、本当に私のことが好きだったんだと思います。
―すごく分かりやすい愛情表現ですね。
でもね、結局、離婚したんです。1月に子どもを産んで、その年の5月に離婚しました。
大晦日、2歳の息子と家を出た——支え合いで築いた新しい暮らし
―これまた、なんという展開……! 一体、何があったんですか?
彼は外国が好きで、特にアメリカに行きたがっていました。妊娠が分かった当初、「子どもをアメリカで生めばアメリカ人になるから、一緒に行こう」と言い出して、実際に手続きを進めはじめたんです。
―彼も、ことごとく大胆な方ですね。
そうなんです。でもその計画はうまくいきませんでした。それでも彼は諦めず、別の方法を考えたんです。つまり、私と一度離婚して自分はアメリカ人と結婚し、子どもにアメリカの身分を与えると。ただしそれは形式上の離婚で、今後も家族として一緒に暮らしていく、と。とにかく子どもにアメリカ国籍を与えたくて、あらゆる方法を考えていたんですね。
―お子さんのためとはいえ、かなり大胆かつ複雑なアイデアですね……。その提案に、張さんは応じたということですか?
応じました。むしろ快諾です。というのも、私自身はアメリカに行く事にはあまり関心がなかったんです。それよりも、彼の生活ぶりを見ていて「この人は危ない」と感じていたんです。毎晩遅くまで商売で人とやり取りをして、資金繰りもかなり不安定。普通の生活じゃありませんでした。だから、法的に関係を切ることができる離婚は、むしろ良い選択だと思ったんです。最終的には私のほうから離婚を申し立て、無事に成立しました。ただ、その後もしばらくは同居を続けていました。
―あくまで書類上の離婚だったのですね。
当時は、そうですね。本当に別れたのは、それから約2年後。2009年の旧正月です。大晦日に彼と大喧嘩をしたんです。やっぱり原因はお金。当時、彼は家具や骨董品のオークション会社を経営していましたが、資金状況は相変わらず不安定で。「もうこんな生活は嫌だ」と思い、当時2歳だった息子を連れて家を出ました。その頃にはすでに自分の語学学校を立ち上げていたので、ホテルには行かず、学校で年を越しました。
―お子さんを連れて家を出るなんて、本当に大きな決断だったと思います。限界まで向き合った末の選択だったんですね。
そうですね。そして翌日には家を探しに行きました。そこでちょうど良い物件が見つかったんです。6階建てマンションの最上階、メゾネットタイプの部屋。上下に寝室がそれぞれ二つずつあり、実質2階建てのような造り。内装も新しかったです。
―ずいぶんと広い部屋を借りられたんですね。
そうなんです。子どもと二人で暮らすには広すぎますよね。なぜそうしたかというと、私一人で息子を育てるのはやっぱり無理だから。そこで、語学学校で働いていた若い女性スタッフ二人に一緒に住んでもらうことにしたんです。二人とも大学を出たばかりで、まだパートナーもいなかったので、声をかけやすかったんです。「他で家を借りる必要はないから、一緒に住んでほしい」とお願いすると、二人とも快く引き受けてくれました。それ以来、私が授業に出ている間は彼女たちが息子を見てくれました。その分の謝礼は給料とは別に支払い、家賃や光熱費もすべて私が負担しました。
―そのタイミングで協力してくれる方が二人もいたというのは、まさにご縁ですね。
本当にそう思います。息子が2歳の頃から、数年間ほどそんな生活をしていました。ただ、元夫も息子のことが大好きなので、新居に来るわけです。「戻ってきてほしい、お金も渡すから」と言って、お金を持ってくる。でも「そういう問題じゃない。お金もいらないし、もう戻りません」とはっきり伝えました。そして、その年の4月。彼は警察に逮捕されました。
元夫の逮捕、そして10年——息子を連れて通った面会の日々
―な、なんということ……! 今度はいったい何が起こったんですか?
彼はとにかく大胆すぎて、借金をしてまで商売を広げていったんです。でもそれを返しきれなくなり、結果的に詐欺罪となり、刑務所に入りました。
―あまりの展開に、言葉を失ってしまいます。
とにかくやりすぎてしまう人なんです。人として悪いわけではないと思いますが、お金を稼ぎたい気持ちが強すぎて。あのときは正直、信じられませんでした。でも今振り返れば、確かに仕方がないですね。
―複雑ですね。当時は信じられなかったというのも無理のないことです。
そうですね。そして判決が出るまでは、一切面会もできませんでした。ようやく会えたのは2年後、罪が確定してからです。
―でも、その後面会に行かれたんですね。
行きました。息子を連れて。当時4歳でした。刑務所となると、友人の中には「子どもは連れて行かない方がいいんじゃないか」と言う人もいました。牢屋に連れて行くのはどうなの、と。でも私は普通に連れて行きました。月に一度。学校がある日はわざわざ連れて行きませんけど。休みと重なったら連れていく。だから息子も、年に数回はお父さんに会っていました。
―そういう生活がどのくらい続いたんですか?
刑期は10年間。そのうち面会に行けたのは 8 年間。だから 8 年通いました。
―8年間も……。本当に大変な時期でしたね。
まぁ、元夫は息子に会いたかったと思いますし。もともとは一生懸命働いて、子どもと妻に良い生活をさせたいという気持ちもあった人ですから。もちろん罪は罪ですけど。それに父親が過ちを犯したからといって、子どもが会えなくなるのも違うと思って。息子も当時は寂しかったと思います。友達はみんなお父さんとお母さんが両方いるのに、自分は母親ひとり。でも一方で、静かでシンプルな生活でもありましたけど。
―お子さんの気持ちを大切にしながら、お父さんとの関係も断たないようにと。いろいろな思いを踏まえた上でのご判断だったんですね。
そうですね。家族とはうまくやってほしいですから。私たちだけでなく、彼の家族とも。刑務所の面会にも、息子だけでなく元夫の家族も一緒に行っていたんです。
―彼のご家族も一緒に……。家族全体のつながりを大切にされてきたんですね。
そこまで深く考えていたわけではないです。まぁ、面白い人でした。手先が器用で、刑務所の中で私にネックレスを作ってくれたり。何を使って作るかというと、電気のコード。黒や白のコードを編んで、ハートを作ってくれたりするんです。意外ときれいでしたよ。あとは、手はがき。いろんなものの絵を描いたりして。そういう人です。だから普通に会わせていました。
―いろいろあるにせよ、彼も愛情深い一面がある人なんですね。
あと、髪も切れるので、刑務所の職員の髪を切ってあげたりもしていたようです。
―すごい。本当に器用な人なんですね。
そう、器用です。怠け者だったら、逆にそこまでの罪は作れないかもしれない。私と出会ったときは、鳥を100羽飼っていたんです。別荘で。でも、猫に入られて全部逃げられた。そんな人です。
―なかなかいないタイプですね。大胆で、自由で……。お話を伺っていると、どこか憎みきれない感じもします。だからこそ張さんも、完全には切り離さず、お子さんを会わせ続けてこられたのかもしれませんね。
まぁ、それも人生ですね。経験しようと思っても、なかなかできることではないですし。
―本当に、おっしゃる通りです。そんな彼は、今どこで何をしておられるんですか?
息子が小学校5年生の春に、刑期を終えて出所しました。旧正月のことです。出所後はまず復縁したいと言われましたが、それはもちろん断りました。さすがに2回目はないですね(笑)。すると「面子がない」と言って南通を出て、マカオへ行きました。今もマカオを拠点に、行き来しながら暮らしています。今はお酒の商売をしているようです。白酒とか、外国のお酒とか。
「家族」はつくり直せる——自立と共存のあいだで
―本当に、バイタリティあふれる方ですね。それにしても、彼は10年間も刑務所に入り、その後はマカオへ。その間、張さんはずっとシングルマザーとして仕事と子育てを両立されてきたわけですが、普段の生活はどのように乗り越えてこられたんですか?
最初の2〜3年は、やっぱり学校のスタッフに助けられました。一緒に生活しながら、仕事中もどちらかが息子を見ていてくれて。息子にとってお姉さんのような存在になってくれました。その後はお手伝いさんも雇いました。息子が中学生に上がる頃には、食事を作る時間もあまり取れなくなっていたので、料理専門のお手伝いさんに毎日来てもらって、昼食と夕食を作ってもらいました。基本的には、全部お金で解決しています。その方が安定するし、必要があればいつでも調整できるから。
―最初の大変な時期を、周りの力を上手に借りながら乗り越えてこられたんですね。ちなみにご実家にはあまり頼らなかったんですか?
実家には頼っていません。というのも、母とは生活習慣がかなり違うんです。母は仏教徒で精進料理なので、お肉は一切食べません。そんな母に「肉料理を作って」とは言えないし、母には母の生活があります。1週間や1か月、継続して子どもの世話をお願いするのは現実的じゃない。だから最初から頼るつもりはありませんでした。お金で解決できることはお金で解決する。お手伝いさんなら、お給料を払えばきちんと対応してくれるから。その方が長期的にも安心。そういうわけで、母は息子の世話を一日もしたことがありません。
―ご自身の状況やお母さまの暮らしもきちんと尊重されたうえで、最初から現実的な選択をしていたんですね。
そう。だから母との関係は、いつも私が支える側です。あと、息子が幼稚園に入ってからは新しいパートナーもできました。結婚はしませんでしたけど。彼にも少し手伝ってもらっていました。
―そうだったんですね。男性の存在が入ることで、生活に少し変化はありましたか。
買い物に行ってくれたり、荷物を取りに行ってくれたり、息子の送り迎えを手伝ってくれたり、そんな感じですね。
―日々のちょっとしたサポートが増えるだけでも、生活は変わりますよね。
そうですね。まぁ彼も私の家に住んでいて、生活費は私がすべて出していました。だからある意味フェアです。私のお金で生活している分、家のことを手伝うという形。私は自分の生活は自分で立てて、そこに少し手を貸してくれる人がいるくらいがちょうどいいんです。彼とはすでに別れましたが、今は普通の友達です。頻繁には会いませんけど、ときどき「このTikTokいいよ」とか「これ参考になるよ」と送ってきたりします(笑)。
―彼にとって、張さんは今でもつながっていたい存在なのかもしれませんね。
たぶん、そうですね。これからも連絡は続いていくと思いますが、もう男女関係はありません。
―そのパートナーの方もそうですが、元夫の方も含めて、張さんは一度関わった人との関係をとても大切にされている印象があります。
そうですね。関係がどんな形で終わったとしても、一度きちんと認めるようにしています。たとえば彼とは7年間付き合っていましたが、その7年間をまず認める。彼にも助けられたし、私もできるだけのことはした。だからお互いに不満はありません。元夫についてもそうです。そして私は、自分から関係を断つことはしません。相手が終わりにしたいなら、それは相手の自由。でも私からは切らない。電話が来れば出るし、家に来ればドアも開ける。開けたら一緒に食事もします。私が大事にしたいのは、家族みんなが仲良く過ごせること。子どものためにも、争いはできるだけ避けたいと思っています。
―過去をきちんと受け止めながら、扉は開けておくということですね。
そうです。話したいなら来てください、と。ただ、その場に彼氏がいることもありますけど(笑)。普通にそのへんにいます。でも、大丈夫。みんなで一緒に食事します。
―なんと、その場に皆さんが一緒にいらっしゃるんですね。
そうですね。当時はよく一緒にいました。
―ユニークな関係性ですね。もう、お友達みたいな感覚なのでしょうか。
友達ではないです。パートナーは家にいたいからいるし、元夫は息子の顔を見たいから来る。ただそれだけです。元夫が遠慮して、家の下で会うこともありましたけど。
―家族とか人間関係というものを、張さんはとても大きな器で捉えていらっしゃるんですね。
でも、線引きはきちんとします。相手を尊重する一方で、自分の意思もはっきり伝えます。「あなたとはもう一緒には生きていけない。そのことは理解してほしい」と。相手がそれを受け入れるには時間もかかりますし、簡単ではないのも分かります。ただ、私もできることはしてきました。息子を連れて8年間刑務所に通ったのもその一つ。それ以上は、もう私の人生です。話し合いたいなら、いつでも来てくださいと。来たらドアを開けるし、食事も出すからと。そんな風にして、だんだん、少しずつ関係が落ち着いてきました。
―張さんのそのおおらかさはどこから来ているんでしょう。オープンで、開放的な考え方は。
まず、仕事をするうえで人間関係はとても大切です。どんな状況でも相手を刺激せず、衝突しないこと。焦らず、ゆっくり向き合うことです。息子にもずっとそう伝えてきました。幸い、息子はとても穏やかで優しい性格に育ちました。最近、一緒に日本へ行ったのですが、地下鉄の階段でスーツケースを持っている人を見つけると、すぐに手伝いに行くんです。男女問わず、誰でも助けに行く。息子は背が高く、力もあるので、迷わず手を貸します。それを見たときに、「ああ、大きくなったな」と思いました。そういう姿を見るのは、母親として何よりの誇りですね。
人生そのものが教室——ありのままを見せる子育て
―人との関係を大切にする姿勢が、そのまま息子さんにも受け継がれているのですね。どうすれば、そんなにまっすぐで優しいお子さんに育つのでしょうか。
まず、親自身が正直であることが大事だと思います。そして、できるだけ隠し事をしないこと。たとえば商売をしていると、お客さんからクレームやさまざまな要求が来ます。そういうとき、実際にお客さんと会って解決する場面に、私は息子を連れて行きます。学校が休みのときは一緒に同行させて、大人同士が問題をどう解決していくのかを見せるんです。
―言葉で教えるのではなく、日常の現場ごと見せていくということですね。
そうです。もちろん、私は常に正しいわけではありません。完璧でもない。自己中心的なときもあれば、冷たいときもあります。でも、そういう自分も含めて「私はこうやって生きている」と見せます。息子は小さい頃からずっと私の語学学校に来ていて、授業の様子や、生徒さんへの対応などもすべて見て育ちました。
―まさに、本当の意味での教育ですね。親の生き方そのものを子どもに見せていくという。
そうですね。間違えたら直し、学び直す。その過程も見せます。今日も「インタビューを受けるから隣にいて」と言って、今こうして一緒にいるんです。ちょうど春休みなので。
―張さんが日々人と接する姿そのものが、お子さんの人格形成につながっているんですね。
そう思います。よく「これは子どもの前では言わない方がいい」とか、「こう振る舞うべきだ」と言う方もいますが、私はあまりそうは思いません。だから息子に対しても、ほとんど秘密はありません。まぁ、ほんの少しくらいはありますけど(笑)。ほぼ、ないです。
―いい学校に行かせるとか、立派な進路を用意するというよりも、親の生き方そのものを見せる。それこそが、親が子どもにしてあげられる一番の教育ですね。
そうですね。私も元夫も商売をしているので、息子も将来はきっと商売の道に進むと思います。商売で大事なのは、正直で明るいこと、それからケチでないこと。息子にはそんな人になってほしいと思っています。そしてその息子も、この春から日本の大学に進学します。
―おめでとうございます!日本へ留学されるんですね。新しいスタートですね。
そうなんです。これまではずっと一緒に過ごしてきたけど、春からはそれぞれの新生活が始まります。
―本当にそうですね。これからは、どんな日々を過ごしていきたいですか。
息子には、まず日本での生活にしっかり慣れてほしいですね。彼なら大丈夫だと思います。私は一人になりますが、今はあまり具体的なことは考えていません。でも、きっと私も大丈夫。これからは少しずつ親孝行もできたらいいですね。それから仕事が安定していけば、それで十分かなと思っています。
―これまでシングルマザーとして仕事と子育てを全力でやってこられたけれど、息子さんの留学をきっかけに新しいフェーズに入っていく感じがしますね。ちなみに、お子さんと元夫との関係は今後どうなっていくんでしょうか。
今のままでしょうね。まぁ、親戚です。今の連絡のペースも、ちょうど親戚くらいの距離感。昨夜は息子とビデオ通話をして、私も顔を出しました。いたって普通です。特別な愛情とか、恋愛関係はない。あったら迷惑ですね。
「我慢しない愛」が、家族を守る
―色々あったけれど、最終的に「親戚」と言えるような関係に落ち着いているのがとても印象的です。愛情という言葉が出たので、最後の質問に移りたいのですが、張さんにとって「愛情」とはどんなものですか? ここまでお話を伺っていて、張さんはとにかく愛情深い方という印象を抱きました。
世の中、いろんな種類の愛情がありますよね。まず男女の愛、いわゆる恋愛は、私にとっては一種の贅沢品です。男女の愛は変わりやすくて、突然現れて、すぐに消える。だから、もし出会えたなら大切にしないといけない。その瞬間を大切にして、後悔しないように、まずは全力で愛することです。
―率直かつ、経験に裏打ちされた言葉ですね。儚いからこそ、出会えたときに全力で向き合うことが大切だと。
でもそれ以外の愛、たとえば親子や家族の愛については、まずは自分を大切にしてほしいですね。他の人のために何かをするのは、自分がきちんと独立して、生活を維持できるようになってからでいい。まずは自分です。たとえば寝不足のときに、子どものために無理して朝ごはんを作る必要はありません。その日はパンをあげればいい。その分、自分がちゃんと休む。なぜなら自分が倒れてしまえば、結局は家庭全体が回らなくなってしまうから。まずは、自分がきちんと生きていくことを優先すべきです。
―自分を守ることが、結果として家族を守ることにつながる。説得力があります。
そして何より大切なのは、自分自身が幸せであること。我慢して人のために尽くしたって、受け取った相手は幸せじゃないと思います。たとえば肉が足りないからといって、子どもに「あなたが全部食べて、ママはスープだけでいい」と言っても、子どもは嬉しくないですよね。だから私は、息子と食事をするときも食べたいものは全部食べます。譲らない。
―本当にその通りですね。我慢ではなく、まず自分も満たされていることが、相手にとっても安心につながるんですね。
そう。ちょうど最近、あるお母さんが過労で亡くなったというニュースを見ました。ママは気をつけていないと、むしろ過労になりがちです。だからまずは自分を満たすことが大事。子どもには子ども自身の人生がありますから。夫だってそうです。
―まずは自分の人生をきちんと生きて、自分が幸せでいること。そのうえで初めて、周りも幸せにできるという。張さんの生き方からは、それを自然に実践されていることが伝わってきます。
あとは結婚についてですが、私は一度失敗しました。でも、結婚そのものを恐れる必要はないと思っています。人生はすべて経験。結婚もその一部です。他のことと同じく、成功する人もいれば、失敗する人もいる。でも「失敗したくないから初めからしない」というのは違うと思う。自分で経験したからこそ、分かることがありますから。私自身、また恋愛をすることはあるかもしれない。おそらくもう結婚はしませんけど。ただ、息子にはできれば結婚してほしいと思っています。そして、家庭を作ってほしい。そうしてまわりを大切にしながら、自分の人生を幸せに生きていってほしいと思います。