5月3日 主日礼拝
5月3日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
ヨハネによる福音書 21章 1〜14節
ヨハネ福音書が記すイエスの復活の物語。
マリアとイエス。
トマスとイエス。
ペテロとイエス。
全て、最初、彼らは分からない。
イエスだと分からない。
それがある時を境にイエスが分かる様になる。
私は世界を見ている。
世界をわかっていると思っている。
だが本当は見ているのに見えないのかもしれない。
世界を分かっていないのかもしれない。
世界が見える、世界が分かるとはどういうことか。
マリアはイエスに自分の名前が呼ばれた時に世界がはっきり見える様になった。
「マリア」名前。
名前それが呼びつづけられること。
それは存在が肯定されていること。
刑に服しているものは「名前」が取り上げられる。
行為、これまで、その存在、それが服役中は否定をされているから。
「名前」それは存在の肯定の証し。
イエスはトマスに言う。
「お前の指を私の掌の傷か跡に、脇に傷跡に差し込んでみろ」
その時トマスは叫ぶ。
「我が主、我が神」
トマスが自分の指で確かめなければイエスだと認めないと言っていた。
イエスは「それをしろ」と言う。
トマスを肯定している。
漁にでたペテロ。
何も取れない。
イエスはペテロに言う。
「船の右に網を打て」
おびただしい魚が網に入る。
その時、ペテロはイエスだと分かる。
魚を取ろうと思った。だが魚は取れない。
イエスの言葉に従った。
魚が取れる。
自分のしたかったこと。予定していたこと。
それが実現した。自分の思いが肯定された。
彼は何をきっかけに分からなかったイエスが分かる様になったのか。
世界がどうしてはっきり見える様になったのか。
肯定された時。
自分は、私はこれでいいと分かった時。
天地創造の物語。
神が世界を造る。
その世界を神はご覧になって「良い」と言う。
神の然り
肯定
それが世界の秩序、あり方。
世界は肯定でできている。
だが人は否定を持ち込む。
自分には不足しているものがある。
自分はダメだ。
その不足を補うのが人生の課題。
人はどんなに生きたいと思っても最後は「死」で否定される。
世界は「否定」が最後に現れると、私たちは思っている。
イエスは復活をした。
「否定」が最後ではない。
「肯定」がその先にある。
世界は肯定でできている。
私はこれでいい。これで大丈夫。
私が私を肯定した時、世界がはっきりと見えてくる。
この世界は「然り」で出来ている。
「肯定」で出来ている。
平和が必ず訪れる場所になっている。