5月10日 主日礼拝
5月10日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
ヨハネによる福音書 21章 15〜19節
復活したイエスはペテロに三度、「私を愛しているか」と尋ねる。
三度、ペテロがイエスを否認したのが三度。
その三度を補うかの様に、イエスは三度尋ねる。
「私を愛しているか」
これにペテロは答える。
「はい、愛しています」と。
ギリシャ語原文ではイエスとペテロがそれぞれに用いている「愛している」が異なっていることが注目されてきた。
イエスが用いる「愛」
原語ではアガパーン。
これは崇高な愛と言われてきた。
これに対してペテロの「愛」。
これはフィレオー。
友情等を表す日常的なもの。
イエスは「私をアガパーンするか」と問い、これに対してペテロは「フィレオーします」と答える。
三度、イエスを裏切ったペテロ、今更、アガパーンなどとは言えない。
自分の使えるものはせいぜいフィレオー。
それが三度、繰り返される。
三度目、イエスがペテロに尋ねたのは「私をフィレオーするか」。
イエスの方が歩み寄った、ペテロは自分が赦されたのを感じた。
と、されるのが一般的な解釈。
ただ、これだと一つの課題が残る。
三度目にイエスが「フィレオーするか」と問われた時、「ペテロは悲しくなった」と聖書は記している。
アガパーンと言いたくても言えない。
フィレオーとしか言えない。
それがイエスの方から「フィレオーするか」と問われる。
イエスが歩み寄ってきてくれたのだから「嬉しくなった」「安心した」なら話が分かる。
だが、ここでのペテロは悲しくなっている。
なぜ、ペテロは悲しくなったのか。
テキストが用いる「悲しさ」の整合性は何か。
三度聞かれた。
それが原因と聖書は記している。
同じことを三回、聞かれた。
自分の言葉が、自分が信じられていないのではないかと思い、悲しくなった。
自分がフィレオーを用いている。それはペテロには実は大した問題になっていない。
それ以前にペテロは気がついていないのではないか。
イエス様がアガパーンと言っているのに、自分がフィレオーとしか答えていないことに。
イエスとずれている。
天地の始めから神と人はずれていた。
神に似せて造られているのに、自分は神とは違うと思い込む人間。
神とずれている。
人とは何ものか。
ずれているもの。
イエスはペテロがフィレオーすると言っている1回目から3回目まで、ペテロに同じ様に接している。
「私の羊を飼いなさい」
私の大切なものをあなたに委ねる。あなたに渡す。
イエスは同じ態度をとる。
ずれている。
百も承知でペテロを信じ、ペテロに委ねている。
私たちもおそらくは同じ。
ずれている。
隣人と、世界と、神と、ずれている。
だが、それでも神は私に使命を与えている。
賜物を与えている。
分かっていて与えている。
ならばそれは決して失われない。
失われないもの。
私にだけあるもの。
それを見出し、果たしていく。
ずれているもののやるべきこと。