にゃんにゃん探偵チャーリーの冒険 ~エクリチュール~・最終話『カルト、エロス、あるいは希望』
GW中は帰省する人や遊びに行く人が多いのでしょう。私の居住エリアは結構静かになるもんです。その静かな時間、私は三冊の本を読みました。それはまるで、人間の精神の最も暗い淵から、眩いばかりの生の肯定へと至る、激しい振り子のような読書体験でした。
まず手にとったのは、ジャック・ケッチャムの『隣の家の少女』(扶桑社)です。そこに描かれているのは、善良であるはずの隣人たちが、エコーチェンバーという閉鎖的なバブルの中で、いとも容易く「狂気」へと堕ちていく過程でした。集団がカルト化し、非文明的な凶暴性を剥き出しにするその光景は、現代のSNSでヘイトを撒き散らす人々の姿と重なります。それはまた、スパイ防止法や緊急事態条項、あるいは殺傷能力の高い武器の輸出といった軍国主義的な狂気を、換気の悪い密室で淡々と進める現在の政局とも、不気味に共鳴しているように思えてなりません。
しかし、振り子はそこから一気に逆方向へと振れます。オルハン・パムクの『無垢の博物館』(早川書房)が描くイスタンブール。地下室で損なわれていく命とは対照的に、そこにはフェスンという、圧倒的な生命力を放つ女性の姿がありました。ラディカルで、性的で、純粋な生のエロスに満ちた彼女の存在は、抑圧された社会に対する最も鮮烈な反抗です。地下室の暗闇を知っているからこそ、私たちはこの生命の熱量を、未来への希望として掴み取らなければならない。私はささやかな確信を得ました(「ささやか」を「確信」と言い切ることには判断保留)。
物語の締めくくりとして私が辿り着いたのは、ポール・オースターの『ガラスの街』(新潮社)です。劇中、壊れた世界を修復するために「新しい言語」を発明しようとする博士が登場します。彼は、既存の言葉がもはや現実を捉えきれなくなった絶望の中で、意味を一度解体し、名付け直そうと試みるのです。
この「言葉の再発明」という試みは、私に一つの予感をもたらします。言葉は、世界を一方的に記述する道具ではありません。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがその著書『哲学探究』(講談社)で示したように、言葉の意味とはその「使いかた(使用)」にこそある。つまり、言葉とは私たちが生きるルールそのものであり、絶え間なく更新される「言語ゲーム」なのです。
これまで十回にわたり綴ってきた「エクリチュール」という探求は、ここで一度幕を閉じます。しかし、それは終わりではなく、新しいゲームの始まりに過ぎません。権力にハックされた死んだ言葉を捨て、私たちは今ここにある生活の中から、新しい言葉を産み落としていく必要があるのです。
ウィトゲンシュタインはかつて、こんな問いを投げかけました。
「動物がおこっているところ、怖がっているところ、悲しんでいるところ、喜んでいるところ、驚いているところは塑像できる。だが希望しているところは? では、なぜできないのか?」
チャーリーが窓辺で外を眺めている姿を、私は美しいと思います。けれど、君が何を「希望」しているのかを、私は完全には知ることができない。たぶん希望とは、言葉よりも先に、生活の中に静かに滲み出るものだからです。
新しい季節が始まろうとしています。さて、チャーリー。今夜は、窓を少し開けて寝ようか。あっ、どうも。(チャーリーの飼い主)です。