役割を脱いでも「私」が崩れない自由とは
長い間、私は「役割」を通して自分を定義していました。
大人になるまではずっと、いい娘であること。
親の期待に応え、恥ずかしくない、ちゃんとした人でいること。
そして学校や社会で必要とされること。
誰かの役に立つこと。
成果を出すこと。
誰かに認められること。
気づけば、私は「私そのもの」ではなく、 “何者であるか”によって、自分を保っていたのだと思います。
けれど役割というものは、とても繊細です。
環境が変われば崩れる。
人間関係が変われば揺らぐ。
評価が変われば、自分の存在感まで揺れてしまう。
だから役割と深く同一化しているとき、人は無意識に緊張している。
ちゃんとしていなければ。
価値を出し続けなければ。
期待に応えなければ。
娘として、母として、妻として、女性の役割もそう。
この会社の一員として、このプロジェクトの一員として、社会における役割もそう。
この立場を失ってはいけない。
この役割を失ってしまっては、自分の価値が揺らぐ。
この役割と自分自身が切り離せない時、人の身体はずっと、気づかないうちに“役割を維持するため”に力を入れ続けている。
私自身、最初は女性としての役割に長いこと縛られてきました。
子どもとしてちゃんと世話をしてもらいたかった。
だから私は、娘としてよくあろうとした。
自分が親になってからは、「いい母とは何か」を問い続けた。
そして家族を維持するために、夫にとっていい妻、いい嫁であろうともしてきた。
また、同時に社会でいかに役に立つ存在になるか、社会的な役割にも縛られてきました。
身体が耐えられるなら、人はきっと、その役割を死ぬまで貫き通すこともできる。
いい母として。
いい社会人として。
誰かに必要とされる存在として。
私もずっと、そうやって生きようとしていた。
でも、その役割を果たすために、もし身体のどこかに無理をきたす「過剰適応」が発生していた場合。
身体がもうこれ以上は背負えない、と声を上げてくることがあります。
強制終了、心身の不調、あるいは病気の場合もあるかもしれません。
これまで大切にしてきた肩書きや立場。 積み上げてきたもの。
“こういう人でありたい”と思っていた自己像。
それらを維持するために、もし身体と神経が本来の自分の働きから大きく逸脱していたとしたら。
それはもう少し、力みを脱いでもいい、サインかもしれません。
最初に身体の力みに気づいたとき。
それを手放すのは、自由というより、むしろ不安でした。
役割が薄れると、存在まで薄くなるように感じる。
社会との接点がなくなるように感じる。
何も生み出していない自分に価値がないように感じる。
だから人は、再び役割に戻ります。
新しい肩書きを探したり、 新しい正しさをまとったり、
「今度こそ本当の自分になれる」
そんな新しい物語を、また握りしめたくなる。
けれど、その自由と不安のあいだに訪れる空白の時間にただ身を委ねた時。
そこにあるのは、“自己の中心を紡ぎ直す時間”だったのだと思います。
役割ではなく、評価でもなく、そこにいる自分。
何かができるから存在しているのではなく、 ただ存在しているだけで、すでに生命としてここにある自分。
「なにかがあってもなくてもここにいていい」という存在レベルでの肯定感を、頭ではなく身体で思い出していく時間。
すると少しずつ、 役割を持っていても飲み込まれなくなっていきます。
役割は、
必要に応じて纏い、
必要が終われば脱げるもの。
そして何を脱いでも、
なお残り続ける“私”がいる。
そこに触れ始めると、心身は少しずつ自由になります。
証明し続けなくていい。
緊張で自分を支えなくていい。
「こう見られたい」を維持し続けなくていい。
するとDoingは、 防衛や不足からではなく、もっと自然な場所から立ち上がってくる。
何かになろうとして動くのではなく、 生命が自然と滲み出るように動き始める。
かつての私は、役割を持つことが苦しかったのではない。
役割を“自分そのもの”だと思い込むことが、苦しかったのだと思う。
だから今はただ、その奥にある“誰でもない私”を忘れないまま、生きる自由を思い切り味わいたい。
役割を脱いでも、私は私でいられる。
その感覚は、 静かだけれど、身体の奥に深い安心を広げていく。