人は覚醒と統合のあいだを生きている
人はいつも、 「わかった」と「わからない」のあいだを行き来している。
悩みの原因がわかった。
苦しみの構造が見えた。
「ああ、そういうことだったのか」と腑に落ちる瞬間は、強いアハ体験になる。
こうした気づきは、自己効力感を増し、新たな選択や行動の余地を私たちに与えてくれる。
けれど、その気づきひとつで、問題がなくなることはない。
しばらくするとまた揺れるし、また悩む。
前とは悩みの種類が変わって、少し視野が高くなったようにも感じる。
でもまた、どこか似たような種類の悩みでまた、壁にぶつかることも少なくない。
こんなとき、私たちは成長してないのかな、と少し思う。
でもそれは、後退ではない。
「わかった」という光に触れることは、おおげさに言えば「覚醒」。
でも「わかった」だけでは、人の生活は安定しない。
その光を、身体と日常に少しずつ浸透させていくことが、「統合」。
「覚醒」「目覚め」というと、世間ではスピリチュアルな用語として受け取られがちかもしれない。
非二元、悟り、意識、自由、こうした言葉に触れながら、人生を変える動きは、大きな変容が期待できそうで、ワクワクする。
その一方で、トラウマや愛着、 神経系や自己理解といった、「統合」の領域へ深く向かう人もいる。
こうした領域を置き去りにしたまま、スピリチュアルだけに向かうと、どこか現実逃避の質を帯びてしまう、だからこれらもまた、時期を見て知ることはとても大切だと思う。
でも実際には、この二つは全然別モノではなく、本来は切り離せない関係がある。
なぜなら目覚めだけでは、身体や人間性が置いていかれることがあるから。
そして統合だけでは、自己構造の修復までは進んでも、生命が大きく開いていく感覚には、どこか届ききらないこともある。
目覚めだけでは、人生は安定しない。
統合だけでは、人生がどこかでスタックする。
両者の行き来を経て今、私が感じるのは、私たちは“両方を循環させながら生きている”ということ。
意識が開いて終わりではないし、癒すことが人生のゴールというわけでもない。
意識が開くほど、身体に降ろされるし、統合が深まるほど、さらに大きな視点が開く。
その往復。
しかもそれを、概念としてではなく、日常と身体感覚の中で生きること。
それがこの地球にこの身体をもって生まれてきた私たちに、「使命」としてプログラムされたことなのかもしれない。
人は、覚醒と統合のあいだを、何度も往復しながら、 少しずつ“わたし”の深い場所へ還っていく。
「わかった」と「わからない」のあいだを行き来すること。
それ自体が、覚醒と統合のプロセスだと今、感じている。