深く一致しながら、大胆に創造するーセルフで生きるということ
人は、
「もっとできる自分になりたい」 という方向と、
「もっと自分に一致していたい」 という方向のあいだを、
行き来しながら生きているのかもしれない。
かつての私は、ずっと両者を揺れながら生きていたと思う。
前者の世界にいるときは、
もっと成長したい。
もっと変わりたい。
もっとできるようになりたい。
もっと影響力を持ちたい。
そうやって、自分を前へ前へと押し出してきた。
そんなふうに、挑戦したからこそ見えた景色がある。
その方向を支えるコーチングや自己探求を通して、かつて被害者意識のなかで窒息しそうになっていた私の人生は、大きく変化した。
でも、それだけではどこか息がうまく吸えなくなる瞬間もまた、あった。
うまくいっても、達成しても、評価されても、身体の奥がどこか安心しきれない。
私を動かすエンジンのどこかに、「欠乏」が残り続けていた。
もっと遠くへ、ここではない場所へ。
ある日私はそのエンジンをそっと降ろし、 “もっと一致している自分” を求め始めた。
かつて、自分を貶める思考や感情と同一化していた自分をゆるし、そんな自分にもスペースを与える。
それらを排除せずに、そこからの学びや神経反応とも、同居する。
それら含めて、この時代、この身体で生まれた私の個性として、受け容れる。
そんなふうに自分を見つめると、気づきと身体が静かに調和していく。
この循環の中で私は、少しずつ本来なりたかった私へと、静かに変容していけたのだと思う。
「私は、この思考そのものではない」
「私は、この感情そのものではない」
そうした“主体の変化”は、 確かに大きな解放で、世界の見え方を一変させる。
でもそうした気づきだけでは、人生は安定しない。
意識が開いても、 身体が追いついていないことがある。
非二元を理解しても、 神経系はまだ怯えていることがある。
「私は在る」とわかっていても、 身体はなお、生存のために緊張している。
私が「覚醒」だと思っていたものが、どこか地上に降り切らなかった理由は、そこにあったのかもしれない。
かつて「覚醒」だと感じる出来事を体験したあともどこか安心しきれなかったのは、この気づきと身体の調和にズレが生じていたからだと思う。
自己一致は、思考や感情だけではない。
心と身体、神経反応、そして行動。これら全部を含めて深く一致した時、私たちは、本来の自分に還ることができた、と心の底から安堵する。
もう戦わなくていい。
もう証明しなくていい。
たとえ肩の力を抜いたとしても、私は崩れない。
日常の中で、 そのまま存在していられること。
静かな呼吸と安心、そして身体との一致。
私たちは、防衛がほどけた先に、自然と発露する行動があることを知ってもいいのかもしれない。
もっと自然に、命の創造としての現われを、現われのままに差し出せる場所。
誰かに勝つためではなく、
不足を埋めるためでもなく、
「私は価値がある」と証明するためでもなく。
もっと生命そのものとして、 表現したくなるとき、
自分の中に初めて “深く一致しながら、大胆に創造する” という感覚が見えた気がする。
挑戦することと、 自己一致することは、 本当は対立しない。
でも “不足からの挑戦”と “存在からの創造”では、 まったく質感の違うものだった。
セルフで生きるというのは、静けさの中に沈むことではなかった。
むしろ、 自分を切り離さないまま、この世界で創造していくことなのかもしれない。
深く一致しながら、 大胆に創造する。
セルフの質感で生きるという新しい挑戦を今、心からおもしろいと思い始めている。