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テマヒマ

何者

2026.05.18 06:10

こんにちは。


民藝と発酵をモノサシに食を通して暮らしの健やかさを提案する古民家セレクトショップ&カフェ テマヒマ プロデューサー,バイヤーの太田 準です。


昨年東京で開催された「風景と創ー山水土瓶こうこう」という展示会の記録集が出来たというのをSNSで見聞きして、その中に民藝の若き研究者・佐々風太さんが「無名性試論ー皆川マスと柳宗悦ー」を書いてらっしゃるのを知って、風太さんにお願いして送って頂き、論考を拝読しました。


前提として、山水土瓶と皆川マスさんについて少しだけ触れておくと、元々は確か信楽とかで作られていた山水土瓶は益子でも作られるようになり、その名の通り土瓶に山や川を描いたもの。実際の風景というよりは、多くの職人により、数多く作られたことにより、模様化し、抽象化し、日々繰り返し描かれることで美しさが生まれる、「他力」「作為の無さ」「無心の美」といった言葉でも語られる、民藝美論の象徴的な存在。栁宗悦も絶賛し、濱田庄司が益子を選んだ理由の一つとも言われています。中でも皆川マスさんは一日何百個のもの土瓶に絵付けをしていたという逸話があります。


皆川マスさんのことを語る時、時代は下って昨年亡くなられた、濱田窯の職人さん・高根沢光子さんのことをどうしても連想してしまいます。急逝された際「有名になった無名の職人」というブログを書きましたので、よろしければご覧下さい。

佐々さんによる今回の「無名性試論」は、昨年出たRITA MAGAZINE2~死者とテクノロジー編~の中で、佐々さんや師匠の中島岳志さんの論考を読んでいたこともあって、とても腑に落ちました。


「無名/,無銘」という言葉は民藝を表す表現としてよく出てきますが、柳宗悦の無名/無銘の用例について考察研究はあまり多くなく、佐々さんによると、初期宗教論において早くも登場していたとのことで驚きでした。老子の「無名は天地の始め」とかマイスターエックハルトの「神は無名である」という言葉でいう「無名」は、名が無いことではなく、名をつけれないぐらいの存在といった意味で、そこから柳の中で連続性があるとしたら、僕らが考えている「無名性」とは違ったニュアンスがそこに込められてる気もしてきます。


今回の佐々さんの論考で、グッときたのが

「無名性は、死者も含めてone of them(大勢の中の一人)であることを肯定する思想である。」

という一文でした。義兄が亡くなったばかりのタイミングでこれを読んでいたのもありかもしれません。


セルフプロデュースとかセルフブランディングとか、もともとビジネス界にあった思考が個人レベルまで広がり、浸食し、特にSNS後は、何者になろうとする意識、何者かでならないといけない風潮が強いように感じています。そんな中、何者でもないことを肯定する、というのっていいなぁ、今求められているなぁと感じるのです。


前クールの朝ドラ「ばけばけ」、とても楽しみに拝見していました。脚本家のふじきみつ彦さんは、小泉セツ・八雲夫妻をモデルにした「何も起こらない」物語と言ってたと思いますが、確か「トキ(主人公)が何者かになる物語でもなければ、成長する話でもない。」とも語っていたように思います。ドラマが支持された理由の一つに「何者でもないことの肯定」ということがあったと思います。山下達郎さんが、奥様の竹内まりやさんの作品について「人間存在に対する肯定」感と仰ってるのも同様でしょうか。


テマヒマで開催している哲学カフェ(月イチ朝カフェ「哲学対話の時間」)では自己紹介しないというルールでやっています。恩送りのOmoiyari Ticket/Omoiyari Noteの手書きのアナログな交換日記もそうですが、SNSの匿名性とは違う、名を匿すのではなく、名を無くしてのコミュニケーション。民藝や発酵から導かれる思想の実践とも言えると様々な取材でもお話してきました。


佐々さんの論考を読んで、それを一歩進めて、名は無くてもいいんだよ、という肯定感もあったのだと思考が進められて、とても有難いことでした。


この記録集の他の論考ついても、また読み進めていきたいと思います。