当たり前になった練習と、伝えること
私にとって、土日のどちらかとムーンデイ、生理日を除いて、シャラや自宅で朝のプラクティスをすることは特別なことではなく、日常の一部になっています。
そのため、一時期は毎日の練習日記よりも、練習を通して得た気づきや学びを発信する方が価値があるのではと思い、ブログ中心の発信に切り替えていました。
ですが、日々の練習がまだ習慣になっていない方にとっては、練習日記を書いていない=練習していないように見えてしまうこともあるのかもしれません。
「この人も毎日コツコツ続けているんだな」
「私も少しやってみようかな」
そんなふうに、誰かが一歩踏み出すきっかけになるなら、日々のプラクティスの記録にも意味があるのかもしれないと思い直しました。
ということで、練習日記をゆるやかに再開してみようと思います☺️
____
2026.5.18(月)最年少アシスタントによる試練
ドロップバックのあと、カムアップをする直前のこと。
気がつくと、更科ご夫婦の娘さんである祈ちゃん(1歳)が私の顔のすぐ近くにやって来ていた。
可愛すぎる。
思わず気が緩みそうになるけれど、そこはしっかりバンダを保つ。
祈ちゃんは完全に安心しきった様子で、その場にちょこんと留まっている。
それでも有哉先生は、いつも通りカムアップを促してくる。
その瞬間、なぜだか祈ちゃんが(お会いしたことはないけれれど)シャラート先生のように見えた。
まるで、
「私がここにいても、ちゃんとコントロールして上がって来られるのか?」
そう試されているような気がした。
不思議と不安はなかった。
慎重に呼吸を保ち、バンダを使いながらコントロールしてアップ。
無事に成功。
それにしても、なんと親子で息の合ったアジャストなのだろう。笑
素晴らしいアジャストをありがとうございました、祈先生🙏✨
2026.5.19(火)見るもの見られるもの
哲学的な観点から見てプラクティス。
体や心を見ている自分自身に意識を留めながら、呼吸に手伝ってもらいながら意識的に体、マインドを向けたい方向に動かしていく。
自分にとって難しいと感じるアーサナになる程、体やマインド、呼吸がコントロール下になくなり、外にゆこうとするマインドに連れ去れそうになる。
そこを意識的に呼吸のコントロールから始め、体、マインドと自分自身を躾けてゆく。
そんな練習をした後の景色はより美しく見え、パタビジョイス師の言葉にある「練習を続けていくことで、全てに神をみることができるようになる」という言葉が少し垣間見えた気がした。
2026.5.20(水)客観視
前日と同様に意識を向けていると、自分の髪の毛のボッサボサ具合に客観視の足りなさに気づく。
それぞれのペースでそれぞれのタイミングで、日々新しい発見がある。
2026.5.21(木)小さなアシスタント再び
ウールドゥバ・ダヌラーサナのとき、足元には祈ちゃんがいた。
足元だったので特に心配もなく、ドリシュティである鼻先へ意識を向け、呼吸に集中していた。
すると突然、祈ちゃんが泣き出した。
何が起きたのだろう。
あとから思えば、少し視線を動かせば様子は見えたはずだった。
けれど私は、自分が見ているものだけを見ていて、見ようとしていなかった。
ヨガの練習中だけではない。
人の気持ちも、優しさも、誰かの助けを求めるサインも、日常のさまざまな出来事も、そこに存在していても、自ら見ようとしなければ見えないことがある。
見えていないのではなく、見ようとしていないだけなのかもしれない。
小さな先生はそんなことを教えてくれたような気がした。
2026.5.22(金)練習の面白さ
金曜日のため、プライマリーシリーズのみのプラクティス。
今日もウディアナバンダにつながる下腹部の引き上げを意識しながら練習。
頭では理解しているつもりでも、まだその感覚を完全には掴みきれていない。
ただ、ほんの少しでもその感覚に触れられたとき、身体の軽さや安定感、呼吸とのつながりが変わることは体験として知っている。
この感覚を自在に使えるようになれば、きっと練習の質は大きく変わるのだろう。
わかりそうで、まだわからない。
だからこそ面白い。
探求は続く。