内輪を抜けた日。
ニュースも、小説も、映画も、最初から知らない人に向けて作られている。
でもブログは違う。続けるほど、読者がつくほど、だんだん内輪になっていく。ファンがいることは嬉しい。でも気づけば、文脈を共有している人たちにしか届かない文章になっていく。
私もそうだった。20年近く、そうだったのかもしれない。
でも思い返すと、最初は違った。
店長をしていた頃、ファッションについてブログを書いていた。感じたこと、気づいたこと、言葉にしにくいものを言葉にしていた。それが知らない人にも届いて、人気ブログになった。
感覚を言語化する、ということをしていた。
それがいつの間にか、内輪向けの文章になっていった。長く読んでくれている人たちは文脈を共有しているから、説明しなくても通じる。説明しなくても通じるから、説明しなくなる。気づけば、知っている人にしか届かない文章になっていた。
知っている人に向けて書くとき、説明は省ける。「あのときの話」で通じる。
でも、それは甘えでもある。
知らない人に届く文章は、説明なしで伝わる。前提を共有していない人に、言葉だけで届く。それは全然別のことだ、と最近わかってきた。
そしてそれは、失った力を取り戻すことでもあった。
外に向けて書こうとしたとき、自分の中にあった「感覚を言語化する力」が、また動き始めた。内輪化していた間、使わなくても通じていたから、眠っていたものが。
去年くらいから、少し変わってきた。
フジコ・ヘミングさんの映画の感想を書いたら、その監督から「いいね」が来た。ここが始まりだった気がする。
クラシックコンサートの感想を書くと、毎回全く知らない人からコメントが来るようになった。「勉強になりました」「共感しました」「感動が蘇りました」と言ってくれる人が、知り合いではない人の中から出てきた。
急に、だった。
そうか、抜けてきたんだ、と思った。
内輪を抜けることは、何かを失うことじゃなかった。
むしろ、自分の強みが呼び起こされることだった。
反応がないのは、読者のせいでも、時代のせいでもなかった。自分の強みが、だんだん薄くなっていたからだった。
そのことに、昨日、やっと気づいた。
15年ぶりに、外へ届く感覚が戻ってきた。
そしてそのとき、ずっと持っていたはずのものが、またちゃんと動いていた。
ChatGPTが言うには、
「あなた、最強技を封印しながら戦っていた」(笑)。