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幕末島津研究室

優秀な人材は下級武士から

2026.06.07 08:00

有為の才は俗吏に多し

 前回の冒頭に、幕末に軍艦奉行や勘定奉行などをつとめた木村喜毅の言葉を紹介しました。

彼は、幕府の官吏登用にはキャリア官僚となる「武人」とノンキャリア官僚である「小吏」の2種があると説明しています。

木村の出自は代々浜御殿(現在は東京都中央区にある浜離宮恩賜庭園)奉行をつとめた家柄です。

浜御殿奉行というのは、かんたんにいうと将軍の別荘管理責任者ですが、布衣(ほい:武家官位で六位に相当)の旗本で役料が400俵ありますから「武人」です。

さらに学問吟味で優秀な成績を治めて登用されているので、彼はキャリア官僚のエリ-トといってよいでしょう。

興味深いのは、その木村が「しかれども、古今往々有為の才を出だすは俗吏の方割合に武人より多しといえり」つまり、「昔から優秀な人材はノンキャリア(=下級武士)の方に多く出現するといわれている」と語っていることです。

じっさい、江戸中期の有名な儒学者荻生徂徠は、8代将軍吉宗に提出した意見書『政談』の中でこのように述べています。

太平久しくなれば、よき人は下より出て、上の人はおろかになり行く事は、いかようなる事なれば、総じて人の才智はさまざまの難儀困究をするより出来るもの也。
総じて人の身は使うところたくましくなり、強くなる物にて、手をつかう時はうで強くなり、足をつかえば足強くなる。
弓・鉄炮などにねらいを仕つくれば目つよくなる。
心を使えば心に才智生ず。
難儀困究にさまざまあう時は、さまざまにもまれて才智たくましくなる。
これ自然の道理なり。
【荻生徂徠著 辻達也校注『政談』岩波文庫】

徂徠は「人の身体というものは使うところが強くなる、才智も同じで、これは自然の道理なのだ」と看破しています。

自ら刀を振るって戦った戦国時代が終わり、太平の世が長く続くと、上級武士の仕事は部下を管理するだけになります。

さらに江戸時代はなにごとも前例踏襲でしたから、創意工夫はいりません。

つまり上級武士はルーティンワークの繰り返しだけ。

じっさいに手足を動かして仕事をするのは下級武士、現場で知恵をしぼるのも下級武士です。

となれば上級武士は無能になり、手足に加えて頭も使う下級武士から優秀な人間が現れるのは、理の当然ということです。

荻生徂徠『先哲像伝・近世畸人伝・百家琦行伝』より
(国立国会図書館デジタルコレクション)


賢才は下から取り立てよ

徂徠は先ほどの文章に続けて、このように語っています。

故に孟子にも「天より大任をこの人に下すべしと思召す時は、先ずさまざまの難儀をさする」ということあり。
殊に下にてもまれて出来たる才智ゆえ、下の事によく通達して、国の治めにもっとも宜しき也。
故に聖人の道にも「賢才を挙げよ」とありて、下よりとり立つる事をのたまい、また歴代を考うるに、賢才の人はみな下より出たる事にて、代々大禄の人には至って稀なる事前蹤(ぜんしょう:前人の事蹟、先例)鏡の如し。
【荻生徂徠 上掲書】

江戸時代に人口の最多数を占めていたのは百姓(農村の住人)で、次は町人(都市の住人)でした。

民主主義社会では選挙というかたちで民意が反映されますが、江戸時代は身分制社会だったので百姓町人の民意を示す機会はありません。

そのため、為政者となる上級武士は、庶民の実情を知りません。

下級武士は身分は武士でも低所得で、内職をしないと生活できない者も多くいました。

つまり、「小吏」の多くは事実上の庶民です。

下級武士の家に生まれて苦労してきた者は庶民の実情をよく知っているので、国を治めるのにもっともふさわしいというのが、荻生徂徠の見解です。

それをいちばん忠実に実行したのが幕末の薩摩藩でした。


「下から取り立てよ」を実践した薩摩

激動期の幕末において、旧態依然とした門閥政治家たちでは、めまぐるしい変化に対応できません。

このため、あちこちの藩で無能な上級武士と、有能だがポストに就けない下級武士の対立が起きています。

たとえば、もともと上士と下士の対立が強かった土佐藩では、藩の人事に見切りをつけた坂本龍馬ら下級武士の脱藩が相次ぎ、藩は優秀な人材を多数失ってしまいました。

しかし、薩摩藩はそうではありません。

勝海舟は、薩摩から多くの偉人がでたのは島津斉彬と西郷隆盛が、それまでの慣例を無視して、能力のあるものを登用したからだと語っています。

平生小児視して居る者の中に、存外非常の傑物があるものだから、上に立つ者は、よほど公平な考えをもって、人物に注意して居ないと、国家のため大変な損をすることがある。
全体薩州から樺山(資紀)だの松方(正義)だのといって、名高い政治家が出て居るのは、何の不思議なこともないのだ。
薩州はその藩主に斉彬公という明君が出て、その人が非常の英断で、何百年来の門閥を打破して、ごく軽輩なる西郷(隆盛)に、藩政の大権を握らしたのだ。
そこで西郷は、鋭意治を図ろうと思って、役に立ちそうな若手の連中を、それぞれその器に応じて、どしどし役人に引挙げて、権力を与えてやったから、そこで今の樺山も、松方も、その他の豪傑も出て来たのだ。
もしも西郷が因循姑息な人間であって、あんな英断をやることが出来なかったならば、樺山でも、松方でも、到底今のような顕要な地位を占めることは出来ずに、或は生涯青二才で終ったかも知れない。
【江藤淳・松浦玲編 勝海舟『氷川清話』講談社学術文庫】

斉彬が西郷に「藩政の大権を握らした」というのは言い過ぎですが、家柄を無視して西郷を抜擢したのは事実です。

ただ斉彬は西郷に諸大名への使者という家老クラスの仕事をさせながらも、ポストは低いまま(庭方:庭師)でした。

これに対し、斉彬の死後に薩摩藩の実権を握った弟の久光は、上級武士が10年以上かけてたどりつく小納戸役という重要ポストに、下級武士の大久保利通をいきなり抜擢する人事をおこなって、藩内をおどろかせています。

それどころか、大久保はその1年すこし後に、ふつうなら小納戸役で10年前後のキャリアと功績のある者だけが選ばれる側役(そばやく:内閣官房長官に該当するポスト)に就任しています。

また、久光が毛嫌いしていた西郷隆盛についても、沖永良部島から呼び戻した翌月には軍賦役(ぐんぶやく:軍司令官)に任命しています。

有能であれば家柄や年功を無視して、各人の能力にふさわしいポストを与えるという思い切った人事を行なったことこそが、薩摩藩が明治維新のリーダーとなった要因だと私は思っています。