掲示伝道(6月no2)
「死を曖昧にすれば、いま、生きていることも、
生まれたことも、みな曖昧になる」
小さい頃、「死んだらどうなるのだろう?」と考え、寝むれなくなったという経験をされた方も少なくないのではないでしょうか。私もそうでした。しかし、そのような問いも、いつの間にか考えないようになってしまっています。なぜでしょう?
それは、考えても意味がないと思ったからではないでしょうか。または、さまざまな経験を通して、自分にとって都合の悪いことからは目を背ける術を学んだからなのかもしれません。そして、この生をいかに充実させるかだけを考えて生きるようになったのでしょう。
でも、よく考えてみれば私が曖昧にしているのは、はたして死だけなのでしょうか。わかっているつもりになっているけれど、生きるとは一体どういうことなのでしょうか。自分の中に、はっきりとした答えが見つかりません…。
そうなのです。私たちは生きるということも曖昧にして、わかったつもりにして生きているのです。それは、いのちそのものから目を背けて生きているからなのでしょう。私たちは、生だけではなく死も含めて生死一如のいのちを生きているのです。そうであるにも関わらず、自分の思いで生はいいもので、死は悪いものとして、目を背けて生きているのです。これでは、安心して生きていくことも死んでいくこともできません。まるで真っ暗闇の中を彷徨うように、社会の速い流れについていこうと必死になり、前だけを見て立ち止まることもできずに苦しんでいるのです。
仏教はそのような私に「あなたはどう生きるのか?」という大切な問いを投げかけてくださっています。そして、「あなたのその尊い有限のいのちに目覚めよ!」と南無阿弥陀仏のお念仏となって呼びかけてくださっているのです。仏さまの教えによってしか、そのことと向き合うことができないからこそ、教えが、お念仏が私たちに与えられているのでしょう。