3月6日 「鹿児島県歴史資料センター黎明館」を見学するの巻
鹿児島本土に入って、早くも6日が経過しようとしている。
ところが、各県訪問の際の恒例行事「県立博物館の見学」をまだ済ませていない。
さっそく調べてみると、「鹿児島県立博物館」は自然史を中心とした博物館ということがわかる。
我々が見たいのは、鹿児島県内の歴史や文化を中心に扱っている博物館。
自然史だけでは意味がない。
他を当たってみると、「維新ふるさと館」「西郷南州顕彰館」「鹿児島市立ふるさと考古歴史館」「尚古集成館」「鹿児島県歴史資料センター黎明館」が候補に上がってきた。
鹿児島全体の歴史を扱っていそうなところはどこかと考えた結果、鶴丸城址にある「鹿児島県歴史資料センター黎明館」が良いのでは、ということになり、さっそく見学に向かうことに。
城山を背景に島津藩の居城・鶴丸城跡があり、その石垣の内側に、黎明館をはじめ、県立図書館、かごしま近代文学館などの文化施設が集中している。
石垣には、西南戦争時の砲撃の跡が残されていた。
中国・南京の城壁にも、日本軍が攻め入った時の砲撃の跡が残されていた事を思い出す。
城壁の中にある駐車場に車を停める。
建物の中に入ると、一階のロビーにはNHK大河ドラマ「篤姫」で使用した小道具などが、ご自由にご観覧ください状態で放置されており、ザッと目を通す。
一階をぐるりと回ってみたが、レストランや喫茶店、お土産物屋があるだけで、何の案内もなく、受付や展示室への入り口が何処なのかもわからない。
お店の人に伺って、ようやく二階に展示入り口があるという事を知る。
現在、常設展示リニューアル工事中のため、一階と三階の展示物の一部を二階に移して展示していたのだった。
黎明館で入り口で受け取った案内パンフには、「鹿児島県歴史資料センター黎明館は、明治百年(昭和43年)を記念して、1983年(昭和53年)に開館した人文系の総合博物館で、鹿児島の歴史、考古、民俗、美術、工芸を紹介」とある。
リニューアル中のせいなのか、理由は定かではないが、民俗関連の展示はともかく、歴史関連の展示が、いかにも中途半端な感じで物足りなかった。
今では、すっかり地域の歴史フェチとなったKY夫婦にとっては、残念な限り。
しかも、展示物のほとんどが撮影禁止……T_T。
全館を通してみて強く印象に残ったのは、民俗関連の展示。
南西諸島(沖縄を除く)という多くの島々を抱える鹿児島県の文化の多様性である。
展示では、鹿児島の本土から南、種子島諸島とトカラ列島までを「ヤマト文化圏」、さらに南の奄美大島から与論島までを「琉球文化圏」と、それぞれ区分されていた。
確かに、鹿児島から沖縄までの間にある、北側の島々は薩摩藩、南側の島々は琉球王国と、それぞれ支配下に置かれていた歴史がある。
しかし、琉球文化圏とされる奄美諸島は、長きに渡り薩摩藩の支配下にもあったのであり、いわば二重の支配を受けていたので、薩摩の文化的影響がなかったわけではない。
鹿児島県域は、鎌倉時代から明治初期まで、頼朝の下で活躍した初代・島津忠久から数えると、およそ700年の長きに渡り島津家の統治下にあった。
江戸から遠く離れた薩摩の地で、島津家は徳川家など問題にしないほどの威光を有していたはずだ。
だかだか250年余りの江戸幕府とは比較にもならない。
これは、甲斐国(山梨)における武田家にも通じるものがあるだろう。
薩摩は、つまるところ島津の王国である。
彼らはさらに奄美諸島を支配し、琉球王朝をも屈服させた。
日本本土と異なる文化を持つ南洋諸島への重層的な支配と、他国との貿易関係によって、結果として、薩摩は他藩に類を見ない、文化の多様性を有することになった。
もちろん、本土から遠く離れた奄美諸島やトカラ列島に住む人々が、自分たちのアイデンティティーをどのように認識してきたかは別の問題であり、例えば奄美の人たちは、自分たちは琉球ではないが、といって薩摩でもない、あくまでも奄美の人間なのだ、と感じることもあるだろう。
この会館では、「鹿児島県立歴史資料センター」と銘打っているものの、普通の一般庶民の文化や暮らし、歩んできた歴史についての資料展示というより、あくまでも支配者島津家目線で作られた歴史資料館なのであろう。
島津以前の鹿児島県内の歴史、隼人に関する展示も期待していたのだが、その片鱗もなく、残念であった。
この城山につくられた以上、当然ともいえるが。
今晩は、この城山の頂上にある「城山公園」に宿泊し、翌朝、散策を楽しもうと思う。