vol.201「江戸城の建設」について(後編)
江戸城の本格的な完成を追ってゆくと、家康様も秀忠も死んでしまって、三代家光の時代までストトントンと行ってしまうのであるが、前編と後編をセットで連投した方が内容が分断されなくて読みやすいので、ここまもう一気にまとめ切っておこう。そのあとまた家康様が死ぬ前に戻れば良いことだし。てゆーか、勢いで今やっとかないと、後日にやる気なくなってるかもなので。
● 神田山の切り通し
平和な江戸時代になると、今まで戦争のために作られてきた城も、その役割を変えなければならなくなってきた。江戸城は将軍の住まいであると共に、これからの日本の政治を取り仕切るところとして、さらに完全なものにする必要があった。
そこで二代目秀忠は、かねねてから考えてきた「の」の字型の大拡張計画にそって、右渦巻き状の堀を、もうひとまわり大きくすることを決意。神田山を掘り割りして、平川の流れを小石川から浅草川に付け替え、隅田川に通す大工事に踏み切った。これにより、今まで外堀であった平川大曲、飯田橋、九段下、神田橋、日本橋の川筋が内堀となり、代わりに新しく小石川、お茶の水、筋違橋、浅草橋の川筋が神田川と言われ、外堀となった。
江戸城の総構えが東北部で整えられたわけであるが、同時に本町周辺の町人地は、平川の洪水に悩まされることもなくなり、さらに神田山から掘り出された土で日比谷入江が埋め立てられ、江戸の町を南西部に広める結果にもなった。また、神田川に切り離された南側大地には、駿府の家臣団が移り住み「駿河台」と名を改めた。こうして、神田山の切り通しは江戸の町づくりに「一石二鳥」どころか「一石四鳥」の役割を果たした。
● 江戸城総構えと見付門
江戸城総構えの工事と共に、本丸の改造も始まった。外観は家康が作った前の天守とそれほど変わらないが、戦争のためにはさほど役立たない縄張りに変更し、あきらかに平和な時代を反映した構造であった。二代秀忠は、三代家光に征夷大将軍を譲り、やがて病死するが、総構え工事はそのまま続けられた。
そして寛永12年(1635)から、いよいよ最終段階に入り、江戸城の西北部の外堀を掘り始める。赤坂溜池にそそぐ小川と、反対側の麹町台地北方に流れる平川支流を繋ぎ、これを神田川へと延長するのである。溜池 ー 赤坂 ー 四谷 ー 市ヶ谷 ー 牛込に至る外堀で、これにより「の」の字型の堀が隅田川から江戸湊に通じ、ここにようやく江戸城の総構えが完全に整えられた。
「の」の字型に伸びる堀で節となっているのが「見付」と呼ばれた城門である。俗に「三十六見付」と言われるほどあったが、主要なのは「江戸五口」である。東海道の虎ノ門、甲州道中の四谷門、上州道の牛込門、中山道の筋違橋、奥州道中の浅草橋門で、ここに幕府の侍が番をして、江戸町中への一般人の出入りをあらため、城下町の治安をはかった。
● 江戸城完工
江戸城の総構えの工事が終わると、三代家光は、いよいよ最後の仕上げとして、もう一度本丸を築きなおす。家康・秀忠の時代から数えて三度目の大工事である。江戸大工頭「木原義久」、京都大工頭「中井正純」を中心とした江戸・京都の優れた大工・石工・左官・金工・塗師・絵師たちによって、大天守や御殿、それに家康を祀る東照宮までが、より大きく、より立派にされた。あまりに豪華に出来上がった建物を見て、家光は驚き、かえってもっと質素に作り直させたほどだったとか。
途中、キリシタンの起こした「島原の乱」や、江戸城中からの火事があって、工事が一時中断されたりもしたが、それでも寛永17年(1640)4月に完成の運びとなった。天正18年(1590)より、徳川家三代の50年に渡っての江戸城工事は、ここにようやく終わった。
● 江戸城本丸御殿
完工した江戸城は、日本の歴史上かつてない規模となった。「の」の字型の都市計画の中核となっている内郭の面積だけでも1.8平方km。当時、全国の城下町の平均面積がちょうどこの程度であり、江戸城は内閣だけで一般の城下町全体の規模を持っていたことになる。
中に建てられた建物も多く、大天守が1つ、櫓が21、多聞(城中の長屋)28、門が99、それに御殿や蔵が無数に軒を連ねていた。東側の江戸城正面=大手門から入ると、まずは中雀門に通じる。ここをくぐると本丸御殿が立ち並び、それらは大別して「表」「中奥」「奥」の三つに分けられる。
「表」は、幕府の政治を行う役所で、俗に千畳敷と呼ばれた大広間を中心に、対面所(白書院)・黒書院などがある。内部は名工らによる彫り物や「狩野探幽」らによる絵が、ところ狭しと飾りたてられ、日光東照宮のような極彩色の建物が出来上がっていた。
「中奥」は、将軍の住まい。御座の間や御休息の間などが主で、地震の時の避難所=地震の間も作られていた。また、将軍に仕える小姓の部屋も多く、大台所は特に大きな建築として有名であったという。
「奥」は、将軍の夫人や側室たちの住まいで、中奥と仕切り石垣で厳重に分けられており、女性以外の出入りは固く禁じられていた。夫人が住む御主殿のほか、ここに仕える女中たちの部屋も無数に続き、あまりに広いので「大奥」とも言われた。
● 江戸城天守
三代家光によって本丸御殿の奥(西北端)に建て替えられた大天守も、日本の歴史上かつてない高層建築であった。天守閣の歴史は、織田信長の安土城に始まる。信長は、それまで日本一と言われてきた東大寺大仏殿の高さを超えるものを建てようとして安土城天守を作ったが、実際は同じ程度であった。続く秀吉や家康も、東大寺大仏殿を目標としてきたが、ここにようやく家光の時代になって名実ともに日本一の高層建築が完成したのである。
その様式も、歴史上もっとも完成されたものであり、地震や台風にも強く、どの方向から見ても塔を正面から見たようにデザインされており「八方正面」と言われた。もちろん火災にも強く、木造であるが土壁を厚くし、屋根は銅瓦でふいた耐火建築である。こうして家光は、最新の技術をふんだんに取り入れ、絶対に倒れるはずのない高層建築を作り上げた。そして、てっぺんに金の鯱鉾を輝かせ、江戸幕府が永久に続くことを天下に示したのである。
いや〜出来た出来た! すごいのが出来た! 50年かかったってさ。ところが、完成からわずか17年後の「明暦の大火」で天守閣は燃えて無くなっちゃうだなんて、残念すぎる!
最近「江戸城天守再建築城プロジェクト」という計画もあるようなので、是非いつか実現してもらいたいものだ。