AI時代に差がつくのは知識より「見方」かもしれない。
最近、コンサートや美術館の感想を書くたびに、似たような言葉をいただくことがあります。
「そういう見方があるんですね」
「言語化してもらえて嬉しいです」
「次はそんなふうに聴いてみたいです」
最初は、ただ嬉しいと思っていました。
でも最近、その感想の意味が少しわかってきた気がしています。
読んでくださった方が受け取っていたのは、知識だけではなかったのかもしれません。
私がその音楽をどう聴いたのか。どこで心が動いたのか。その体験から何を見つけたのか。
つまり、私の「見方」だったのだと思います。
AIを使うようになって、知識は本当に手に入りやすくなりました。
作曲家の背景も、曲の解説も、演奏家のプロフィールも、AIに聞けばすぐに返ってくる。昔なら調べるだけで時間がかかっていたことが、今は数秒です。
知識があると、自分が感じたことと作品の間に、作者の意図が見えてくることがあります。あの瞬間に心が動いたのは、作者や演奏者がそこに意図を込めていたからだったのか、と気づく。感覚と知識がつながる瞬間です。
自分が感じたことだけで終わると、まだ受け取れるものが残っているのかもしれない。だから私は、まず感じてから、後でAIに知識を聞くようにしています。順番が逆になると、感じる前に「正しく理解しなきゃ」になってしまうから。
だからこそ思うのです。
知識が簡単に手に入る時代に、人は何を探すようになるのだろう、と。
たぶんそれは、「誰かのレンズ」なのではないかと思います。
私自身、映画を見た後に岡田斗司夫さんの解説を聞きたくなることがあります。映画の情報が欲しいというより、岡田さんのレンズで見た世界を知りたいのだと思います。
その人の目を通した世界を見たい。その人がどう受け取ったのかを知りたい。そういう欲求が、むしろ強くなっているのかもしれません。
私はずっと、感想文を書いているつもりでした。
でももしかすると、私が書いていたのは感想そのものではなく、私のレンズを通した世界だったのかもしれません。
遠い席を、ただ遠い席として見るのではなく、別の聴き方ができる席として見る。知っていると思っていた音楽に、まだ知らない顔を見つける。コンサートの一夜を、自分の人生や過去の記憶とつなげて受け取る。
そういう見方そのものを、読んでくださった方が受け取ってくれていたのだと思います。
AI時代になると、知識の価値がなくなるわけではありません。むしろ、知識はますます大切です。
ただ、知識だけでは差がつきにくくなる。
その時に大切になるのは、その知識や体験を、どのようなレンズで見るか。そこなのだと思います。
人はこれから、知識だけではなく、誰のレンズで世界を見るかを探すようになる。
そして私自身も、これからもっと自分のレンズを磨いていきたいと思っています。
音楽を聴くこと。美術を見ること。映画を見ること。人の話を聴くこと。
そういえば、私はコーチとして人の話を聴く時にも、同じようにレンズを使っています。この人は何を感じているのか。何を見ているのか。どんな世界に生きているのか。そのレンズで聴くから、言葉の奥にあるものが見えてくることがある。
その体験を、ただ情報としてではなく、自分の目を通して受け取り、言葉にしていく。
AIが知識を補ってくれる時代だからこそ、人間のレンズがより大切になる。
そんな時代が、もう始まっているのかもしれません。
堀口ひとみ