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一号館一○一教室

『アンネの日記』

2026.06.09 02:00

この世に生きているのが
わたしひとりであったならば


805時限目◎本



堀間ロクなな


 そのうちぜひペーターに訊いてみたいんですけど、彼は女性のあそこが実質的にどんなふうになってるか、知っているでしょうか。わたしの思うに、男性のあそこは女性のほど複雑じゃないようです。写真だの絵だので、裸の男性のようすは正確に見ることができますけど、女性のは見ることができません。〔中略〕

 立ったところを正面から見た場合、見えるのはヘアだけです。両脚のあいだに、小さなクッションのような、やはりヘアの生えたやわらかな部分があって、直立すると、それがぴったり合わさるので、それより内側は見えなくなります。しゃがむとそれが左右に分かれますが、その内側は真っ赤で、醜くて、生肉っぽい感じです。てっぺんに、外側の大陰唇にはさまれて、ちっぽけな皮膚の重なりがあり、よく見ると、これが小さな水ぶくれのようなものになっているのがわかります。これがクリトリスです。つぎに小陰唇があって、これも小さな襞のように、たがいに合わさっています。これをひらくと、その内側に、わたしの親指ほどもない、小さな肉質の根っこのようなものがあります。この先端は多孔質で、それぞれ異なる小さな孔がたくさんあり、おしっこはここから出てきます。さらにその下の部分は、一軒ただの皮膚のように見えますが、じつは、ここに膣があります。見つけにくいのは、このあたり全体が小さな皮膚の重なりになっているせいです。その下の小さな孔は、見たところおそろしく小さく、ここから赤ちゃんが出てくることはおろか、男性がはいってこられるとさえ思えないくらいです。



 これが『アンネの日記』の1944年3月24日(金)の記述の一部と知ったら仰天するひとも多いのではないだろうか?(深町眞理子訳) こうした露骨な内容は、アンネの父オットー・フランクが第二次世界大戦後の1947年に亡き娘の形見として日記を公刊した際に除かれて、われわれが子どものころ読んだ翻訳にもなかったけれど、現在では自筆原稿のとおりに復元されている。



 アンネ・フランクの悲劇的な生涯についてはいまさら説明するまでもあるまい。ナチス・ドイツのユダヤ人迫害から逃れるために一家でオランダのアムステルダムへ移り、やがてあとを追うようにナチスが侵攻してくると、1942年7月以降約2年間におよぶ隠れ家生活を余儀なくされ、この間、13歳から15歳にかけてのアンネは膨大な日記を書き残したのだ。そこで重要なポイントは、当初、無味乾燥な日常を紛らわすためにペンをとった彼女が、1944年春にラジオ放送でオランダ亡命政府が将来占領下の記録の集大成を企画していると知り、自分の日記に対する態度を一変させたことで、引用個所も世間への公表を前提にしたためられたものと想定できるのだ。



 隠れ家生活をともにしたファン・ダーン家の3歳年上の少年ペーターに本物の恋愛感情を抱いたのかどうかはどうでもいい。外界から遮断されたなかで他に異性の選択肢はなかったのだから。だとしても、あくまで自己を抽象化することなく、ひとりの女性として世界に対峙させようと、およそプライバシーなど存在しない境遇にあってみずからの股間に手鏡を向けた記録が上記の部分なのだ。おのれの核心をここまで凝視した文章をわたしは他に知らない。おそらく過酷な閉塞状況が彼女を容赦ない観察者に仕立てたのであり、その姿勢はさらに前に向かって進んでいった。



 前にもお話ししたとおり、わたしはいわば二重人格です。いっぽうは、生来のあふれるばかりの快活さと、どんなことでもおもしろがれる陽気さ、活発さ、そしてなによりも、あらゆる事物を軽く受け取る流儀、などをあらわしています。このなかには、男の子からちょっかいをかけられたり、キスされたり、抱きしめられたり、品のない冗談を言われたりしても、あまり気にかけないというようなことも含まれています。こちらの一面は、いつも機会を狙っていて、なにかといえばもうひとりの、より良い、より深みのある、より純粋なわたしを押しのけてしまいます。ぜひわかっていただきたいのは、この良いほうのアンネを知るひとはひとりもなく、そのため、たいがいのひとがわたしを、我慢のならないでしゃばりだと思っていることです。たしかに、半日くらいならわたしだって、軽薄な道化を演じることはありますけど、みんなはもうそれだけで、あと一月くらいはアンネの顔なんか見たくもない、なんて思ってしまうんです。〔中略〕これではたまったものじゃありません。ここまで一挙一動を見まもっていられると、だんだんわたしはとげとげしくなりはじめ、つぎにはやりきれなくなって、しまいには、あらためてぐるりと心の向きを変え、悪い面を外側に、良い面を内側に持ってきてしまいます。そしてなおも模索しつづけるのです。わたしがこれほどまでにかくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるかのかを。きっとそうなれるはずなんです。もしも……この世に生きているのがわたしひとりであったならば。



 アンネの視線は、もはやこうした不条理な隠れ家生活を強いる世界を人間喜劇を見据えて、その舞台の道化といきるおのれのしたたかさと、そこに秘められた哀しさを受け止めるまでにおよんでいた。いまだ少女の面影を色濃く宿した叙述にせよ、最後の一行は、彼女の半世紀前に出現した同じユダヤ人の若者、フランツ・カフカの文学的主題を受け継ぐものといったら深読みが過ぎるだろうか。この文章が書かれたのは1944年8月1日(火)で、『アンネの日記』の最後の日付だ。その3日後、何者かの密告によってゲシュタポ(ドイツ秘密警察)が隠れ家を急襲し、彼女の一家と同居人の計8名は逮捕されて強制収容所送りとなったのである。



 もとより、アンネが書き残した日記をナチス・ドイツの非人道的犯罪から切り離して読むことはできない。しかし、その反面で、たんにホロコーストの悲劇の象徴としてのみ記憶されてしまうとすれば、彼女がみずからの存在を賭して精一杯立ち向かった意思にそむくことになりはしないか。わたしは『アンネの日記』を20世紀の世界文学の座に置かれるべき作品だと考えている。