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テマヒマ

姥捨

2026.06.24 07:18

こんばんは。


「暮らし、味わう」


民藝と発酵をモノサシに食を通して健やかな暮らしを提案する古民家セレクトショップ&カフェ テマヒマ プロデューサー,バイヤーの太田 準です。


民俗学者の畑中章宏さんの「老いに追われて」読了しました。確かテマヒマで畑中さん共著の「オルタナティブ民俗学」をお取り扱いさせて頂いたことがきっかけだったかと思いますが、何度かテマヒマにもお越し下さっています。畑中さんの本を読むのは「今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる」「小泉八雲『見えない日本』を見た人」含め4冊目でしょうか。


自分自身の「老い」を感じる今日この頃、このタイトルを見て思わず読み始めました。約10年前にWEBで連載していたものを書籍化したもので、畑中さんと僕とはちょうど10歳違いなので、今の僕と同じ年の頃に書いてらっしゃったということになります。昔話や神話、伝承や文学など過去の様々な「老い」と老いとの向き合い方、接し方をあつめ、語られていきます。時代によって違う、変わってきたこともありますが、変わらないところの方が多い、現代にも通じるテーマのように思います。「老い」と同音異義語の「生い」。この年齢になるとそれは、同義は言い過ぎまでも、重なっていきます。あとがきにもありますが「追い」も「負い」も同音。そこから「生きるとは?」を考えてもよいかもしれません。


あとがきでは「老い」や「病い」は形容詞ではないか?感情を表わす言葉ではないか?という見解、投げかけをしています。僕も別の視点を書いておきたいと思います。老いは、「老いていく」という経年変化(畑中さんは坂道に喩えてます)、進行形ではあるのですが、同時に「老いがやってくる」という感覚もあります。義兄の急逝に際して、「死」についてヒンディー語の与格的感覚を書きましたが、「老」もまたそのように感じるのです。「病」もきっとそうでしょうし、ということは「生」も!?


「私は母をすててきたばかりである。」という印象的な、ちょっとドキっとする言葉から「老いに追われ」は始まります。現代における「姥捨」ということについ考えます。穏やかに亡くなることの象徴として「畳の上で死にたい」という言い回しをしますが、現代においてそれはとても難しいこと。認知症となった祖母は施設に入りそこで亡くなりましたし、父は終末医療を専門とする病院で最期を迎えました。それは家族の「老」「病」「死」を自らの「生」から遠ざける、ある種の「姥捨て」とも言えるのではないか。。。


そしてもう一つ考えたのは、企業と高齢者の関係。例えば、高齢者の再雇用。定年後に役職を外れ、給料がカットされ、たいした仕事も任されず、モチベーションが下がる姿は「姥捨て」的ではないのか?例えば、企業の早期希望退職。企業業績が芳しくなくなった時にまずは高齢者から順に肩たたきしていく、それは「姥捨て」的ではないのか?僕自身が知り得る会社の情報は限られているのですが、似たようなことは世の中で多く起こっている気がします。企業にしても、個人・家族にしても、急速に進む高齢化に制度や規範、そして思考が追い付いていない気がしますね・・・


以前もご紹介した、民俗学の柳田國男と民藝の柳宗悦の対談。栁によると、民俗学は経験学であり、民藝は規範学であると。その論で言えば、高齢化社会の実相をそのまま記述する民俗学に対して、民藝「的」な立場はその中でどうあるべきか?どうありたいか?を語る必要があります(美の話ではないので民藝そのものではなく民藝「的」)。民藝から導かれるのは寛容さであり、制約を受け容れる、制約を前向きに捉えることだと個人的には考えています。例えば目じりの皺を老いではなく、笑顔の勲章と思うように、「老い」も衰え(経年劣化)ではなく味わい(経年の美)と思える世の中になればなと思います。そしてサードプレイス(第三の居場所)、サードタイム(第三の時間)として老いも若きも集えるようなテマヒマでありたいと思います。


テマヒマは昨日今日火曜日水曜日で定休日です。明日から「夏迎え~風をあつめて~硝子と藺草と団扇と~」第二週。11時オープンで皆様のお越しをお待ちしております。


それでは明日も好いモノ、好いコト、好いトキをテマヒマで。