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一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

vol.205「一国一城令と元和令」について

2026.07.19 20:50


時は慶長20年(1615)。4月から5月にかけて行われた「大阪夏の陣」で豊臣宗家が滅亡した直後の、同年閏6月13日のこと。すでに天下を統一し、江戸幕府体制を敷いていた徳川家ではありますが、その基盤を盤石にするために「一国一城令」を公布するのでございます。


「一国一城の主(あるじ)」と言うと、現在ではマイホームなどを所有しているといった肯定的な意味で用いられるもんですが、この時代の諸大名にとっては決して肯定的に受け止められるような布令じゃなかったようで。なぜなら、ひとつの国がひとつだけの城を持つことができるとすると言うことは、それまですでに築城されていた各大名の持ち城が、ひとつを除きすべて不要の物となるからでありましてな。


かと言って、とうとう豊臣家をも滅ぼして無敵となった家康様に逆らったら殺される。。というわけで、諸大名らも頭が痛い。で、結局どう対応したのか。事例別に細かく見ておきましょうか。




● 一国一城令が出された理由は?


江戸幕府が一国一城令を出した理由は、諸大名の力を削ぎつつ幕府に権力を集中させるためであった。実はこの一国一城令、発布当初は畿内・山陽・山陰など西日本の大名が対象で、徐々に全国に広がったらしい。真っ先に対象とされた西日本は、豊臣恩顧の外様大名が多い地域。幕府に対する反乱はもちろん、大名同士の戦争も封じるためにも、幕府としては軍事拠点を減らしたいという考えもあったようだ


それもそのはず、慶長の築城ラッシュにより慶長14年(1609)には、なんと1年で25の天守が立ったのだとか。これは家康でなくても城を減らしたくなる。城があると戦がしやすい。せっかくワシが天下統一して戦国時代を終わらせたんじゃから、もう城はいらんじゃろ。城なんか壊して平和に行こうぜ!


というわけで、せっせと建てた城を一国一城令で壊さざるを得なかった大名たちだが、デメリットだけだったのかといえば、実はそうでもなかったようで。原則として「一律令国あたり一城に限る」ということは、大名の家臣たちは城を持てなくなるわけであり「家臣が力をつけて下剋上!」とはいかなくなる。つまり、大名にとって家臣を統制しやすくなるというメリットもあったわけだ。


この法制を受けた各大名はそれぞれに対応し、分家統制の目的で積極的に動いた藩や、領地替えで移転した先に城が無かったため新築せねばならず困窮した藩、一部の城を破却せず密かに維持した藩など、様々であったという。




● 毛利氏の事例

毛利氏(萩藩)は、周防国、長門国の二令制国で一城というかたちになった。毛利家では、長門国の萩城を残して岩国城などを破却し、幕府に報告したが、幕府の反応は「毛利家は周防国、長門国の二国だから周防国の岩国城まで破却する必要はなかったハズじゃないの?」というものであった。幕府への遠慮や毛利家内部の支藩統制上の思惑もあり、先走って破却が行われたと考えられている。



● 鍋島氏の事例

鍋島氏(佐賀藩)は、肥前国(大半)の一令制国で一城というかたちになった。五州二島の大守と呼ばれた龍造寺氏は、肥前国にも多数の城を持ったが、鍋島氏は佐賀城を残して全て破却した。毛利家同様、支藩統制上の思惑もあり積極的に行なったとされ、三支藩の城主格昇進を妨害して騒動も起きている。



● 池田(岡山)氏の事例

岡山池田家(岡山藩)は、備前国、備中国(一部)の二令制国で一城というかたちになった。姫路藩の時代には、播磨国に姫路城のほかに赤穂城(加里屋城)を持つが、岡山城で執政代行を務めた利隆が備前国の諸城を破却した。光政が姫路から鳥取を経て岡山に戻ると、領内に残されたのは岡山城のみであった。



● 井伊氏の事例

井伊氏は一城令の前に、彦根城を築くにあたり佐和山城はじめ近江の諸城を破却している。結果として彦根城しか残らず、大老も出す譜代筆頭の井伊氏が諸大名に一城令を守る手本を示した格好になった。筆頭家老・木俣家は1万石を領しているが、陣屋を持たなかったため、月の大半を彦根城の西の丸三重櫓で執務を行っていた。



● 尾張徳川氏の事例

尾張徳川氏(名古屋藩)は、尾張国、美濃国(一部)、三河国(給人地)、信濃国(木曽)の四令制国で一城というかたちになった。一城令に先立ち清洲越しが行われた際に、清須城も破却された他に尾張国内の諸城も壊され(名古屋城築城の際の資材として利用されたものもある)、尾張藩は名古屋城のみとなった。



● 会津松平氏の事例

蒲生氏(会津藩)は家康の娘婿である事もあって、若松城の他に、越後国東蒲原に津川城、陸奥国(岩代国)に二本松城、陸奥国(磐城国)に白河小峰城という具合に、旧領主・上杉氏の諸城を保有し続けた。加藤(嘉明)氏は蒲生氏より所領が小さく津川城を失い、保科氏はさらに小さくなったので若松城と猪苗代城のみとなった。

会津松平(保科)氏は、松平に改姓後に預かり地5万石余を得て藩域が陸奥国と越後国に跨るが、津川城を再築城することは出来なかった。また、築城途中だった神指城は、建物を会津若松城に一部移して破却されたが、上杉景勝が会津若松城に抱いた地政学上の懸念も会津戦争で試される結果となった



● 堀尾氏の事例

堀尾氏(松江藩)は、出雲国、隠岐国の二令制国で一城というかたちになった。堀尾忠晴は松江城を残し、出雲国の月山富田城(尼子氏の居城)、隠岐氏の居城だった隠岐国にある島後の国府尾城(甲ノ尾城)、島前の美田城などを破却した。また自領以外にも、寛永9年(1632年)、幕府により丹波亀山城を破却するように命じられるが、間違って伊勢亀山城を解体してしまった



● 生駒氏の事例

讃岐一国を持つ生駒氏(高松藩)は、高松城を残して讃岐国の全ての城を破却したと報告した。ところが、生駒騒動が起こり生駒氏が出羽国矢島藩1万石に転封された後に、丸亀城を樹木で覆い隠し立ち入りを厳しく制限し、実は破却していなかった事が露見した。その後、生駒氏は大名の地位を失い8000石の交代寄合となる。



● 藤堂氏の事例

ひとつの令制国につき城はひとつであるが、その一国を複数の大名が統治している場合は例外措置として、大名の数だけ城が置かれた。例えば、伊予国(愛媛県)は藤堂氏の今治城、伊達氏の宇和島城、脇坂氏の大洲城、加藤氏の松山城、のように複数の大名が自城を持つことになった。徳川幕府としてもいらぬ争いを生みたくなかったということであろう。



● 前田氏の事例

厳密な決まりのない「一国一城令」は、幕府との関係次第では一令制国に一城ではなく、複数の城を持つことが許された。例えば「加賀百万石」で有名な前田氏の金沢藩は、加賀・能登・越中国の三令制国を治める大名。当初は加賀国の金沢城のみ許されていたが、前田利常が徳川家と親しい関係にあったことから、後に加賀国に小松城を再建することを許可されている。



● 佐竹氏の事例

佐竹氏の久保田藩(秋田藩)は、出羽国(山形県、北東部を除いた秋田県)の一令制国で三城を得ている。こちらは幕府による優遇策ではなく、物理的に出羽国が広すぎたためで、久保田城、大館城、横手城を残した。実は佐竹氏、関ヶ原の戦いの際にどっちにつくか家臣で意見が割れた結果西軍寄りの行動をしており、それを徳川家康が咎め、もともといた常陸国(茨城県)から出羽国に減転封されていた。幕府としては減転封により常陸から引っ剥がした時点で、”佐竹氏の力を削ぐ”という家康の狙いは、半分達成されていた。となると、後は恨みを買い続けないよう、多少は攻め手を緩めてやる必要がある。新天地でいろいろと不慣れな佐竹氏に恩を売ろうという考えもあったのかもしれない。



● 伊達氏の事例

幕府側の配慮ではなく、大名側が「これは城ではなく要害屋敷(または役屋)だ」とごまかしにかかったケースもある。仙台藩の伊達氏がこの例で、要害屋敷としているが一部には石垣もあり、「これ城なんじゃ…」というものもある。貞享4年(1687年)に幕府に届け出た要害屋敷はなんと21ヶ所もあったのだとか。ちなみに仙台藩は仙台城に加え、伊達政宗の右腕・片倉小十郎景綱が城主だった白石城も破却を免れている。

幕府は割と仙台藩に甘かったように見えるが、ごまかしを認めたのは東北地方に一揆が多かったため配慮した、片倉家を引き立てることで伊達家と勢力を二分させ仲たがいさせ、仙台藩の勢力減を狙ったなど、さまざまな説が挙げられている。



これらの動きにより、安土桃山時代に3,000近くもあったといわれる城郭が約170まで激減し(陣屋を含めると約300)、結果として家臣団や領民の城下町集住が一層進んだとされている。





● 一国一城令の後に出された「武家諸法度」


城の数に規制を設けた一国一城令であったが、その翌月、幕府は「武家諸法度」を口頭で発布する。武家諸法度はその後も数度にわたり出されているので、この時のものは別名「元和令」と呼ばれている。


その内容で重要なのは、①城郭修理の禁止、②徒党の禁止、③婚姻の許可制、④参勤作法、⑤大名の国政、であった。


①で幕府は「諸国の居城修補をなすといえども、必す言上すべし。いわんや新儀の構営堅く停止せしむる事」、つまり城の修繕は勝手にせず幕府に事前に伝えること、増築や新しい城を建てるのは禁止であると定めている。


武家諸法度は、破ると重い厳罰が下された。よく「一国一城令のせいで改易させられた人」として名があがる「福島正則」であるが、正則が破ったのは武家諸法度のほう。正則は、元和4年(1618)に広島に台風が上陸し、広島城が被害を受けたことから城を修復しようと幕府に届け出る。ところがなかなか聞き入れられない。見かねた正則は、城の修理を勝手にはじめ、幕府には事後報告ですませようと考えた。


それを知った徳川秀忠は「武家諸法度に抵触した」と怒り、正則を改易しようと試みるが、他の武将への影響を考えたのか一度クールダウン。修復した石垣や櫓の破却などの条件で正則を許そうとした。ところが、正則は条件を守らず不十分な対応しかしなかったため、秀忠は正則を信濃国川中島四郡の高井郡(長野県)と越後国魚沼郡(新潟県)に減転封させている。


一方で、きちんと城を破却していない場合でも見逃されることもあった。例えば、薩摩藩の島津氏は城の破却を積極的に実施せず、寛永10年(1633)に幕府の役人が諸国を見廻った際、「なぜ他国のように城を破却していないのか」と突っ込まれている。これに対し、島津氏側は「城を掘り崩すそこを田畑にして知行を増やそうとする者がいるから」と言い訳じみた回答をしていますが、役人はスルーしている。


そんな一国一城令が再び注目を集めるのが、寛永14年(1637)10月から翌15年(1638)2月まで続いた「島原の乱」である。一揆軍が立てこもったのは、破却された原城趾であった。このため幕府は、島原の乱後に一国一城令を強化。廃城となった城郭を一揆勢などが利用しないように、石垣を破壊するなど徹底的に城を破却させるよう大名達に求めるとともに、監視を強化していくのであった。




「大坂の役」と「一国一城令」と「元和令」のトリプルコンボで、徹底的に徳川の世を確立した家康サマは、「おっしゃ!やること全部やったで!」と、この後サクッと亡くなられてしまうのですよね。


でも、本当にやることやり尽くした感すごいある。完全なる完成は、秀忠、家光になってからとは言え、そのすべての仕込みをやっておいたのは家康サマであって、他にもそうゆー事業がたくさん。


さすが神の君ですな。



参考
https://www.homemate-research-castle.com/useful/16936_tour_017/
https://ja.wikipedia.org/wiki/一国一城令

https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/820/#google_vignette

https://bushoojapan.com/bushoo/shiro/2025/06/12/116849#google_vignette