教育で出世”させる”
長男・次男を養子に出す
以前に「幕府役人のキャリアパス」の回で取り上げた幕末の名勘定奉行川路聖謨ですが、彼は豊後日田の代官所手代内藤吉兵衛の長男として日田で生まれました。
幼名は弥吉といいます。
父吉兵衛は甲州の浪人で、諸国を放浪中に日田の代官所手代と知り合い、その娘を嫁にして自分も代官所で働いていました。
以前にも書いたように代官は幕臣ですが、現地採用である手代は幕臣ではありません。
多少学問もあった吉兵衛は、日田でこのまま埋もれてしまうより幕臣になって世に出たいと考え、妻子をつれて江戸に移り住みます。
吉兵衛は日田で蓄えた金に甲州にあった親の遺産を売却した金を加えて江戸で御家人株を買い、下級役人である徒士に採用されました。
しかし上司と折り合いが悪く、うつうつとした日々を過ごしていました。
そうしているうちに自分の年齢ではもはや出世は望めないと思い当たり、二人の息子(江戸で次男松吉、のちの外国奉行井上清直が生まれていた)を教育して、彼らを世に出そうと決心したのです。
この吉兵衛が親しくしていた人物に、小普請組(無役の御家人)の川路三左衛門がいました。
小普請組ですから仕事はなく、園芸を楽しんだり、友人を訪問したりして日々を過ごしていたのですが、あるとき弥吉をみかけて、吉兵衛に「自分には子供がいないが、あなたは男子ふたりいるから、弥吉を養子にもらえないか」と持ちかけました。
弥吉は長男なので吉兵衛はことわったのですが、しつこく頼まれるうちに、「川路の家を継げれば弥吉にとってはいい話だし、次男に後を継がせれば我が家も続く」と考えました。
そこで三左衛門と相談し、引き続き自分の手元に置いて教育するという条件で養子を承諾します。
次に生まれた三男の重吉も健康に育ってくると、こんどは次男松吉を井上新右衛門という御家人(持組与力)の養子に出しました。
ほどなくして井上の養父が亡くなったため、井上家親類の決議で吉兵衛が松吉の後見をすることになり、屋敷が広い井上家に内藤一家が引っ越して、息子たちの家庭教育が本格的にはじまります。
と、前置きが長くなりましたが、本題はここからです。
昼は読書、夜は復習20回
明治22年にでた『江戸会雑誌』に掲載された「名家逸事 川路聖謨」に、父吉兵衛のスパルタ教育ぶりが書かれていました。
それによると、吉兵衛は聖謨兄弟が幼い時よりひたすら読書をやらせて、みだりに外出することを許さなかったそうです。
遊びたい盛りの子供なのに、許されるのは日没後から部屋に明かりをともすまでのわずかな間だけ、しかもそれすら稀であったと書かれています。
そうして、夜になると昼間学習したところを20回復習するまで寝かせませんでした。
その間吉兵衛はそろばんを横に置き、1回ごとに玉を動かして回数を確認していたそうです。
ある夜隣人が訪れたので、吉兵衛は隣人と話をしながら聖謨の復習をかぞえていて、玉を動かし忘れたことがあります。
聖謨が20回の復習をおえて、読み上げるのをやめると、吉兵衛が「回数が足りない」と叱りました。
聖謨が「20回やりました」と反論したら、吉兵衛は怒ってそろばんをご破算にし、もう一度はじめから20回やらせたので、隣人はその厳格さにおどろいたそうです。
また、大正3年の史談会では法学者の松平正親がこんな話を披露していました。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、句読点とカギ括弧をおぎなっています)
幕末の名士川路左衛門尉の阿父さんは非常に厳格な人であって、左衛門尉が子供の時に何か悪遊戯をしたというので、縄で縛って井戸の中へつるし上げて置いた。
近所の人が非常に驚いて止めに行った処が、「自分のせがれは、布衣以上になれなければ死んでしまってもよろしい」と申したそうであります。
この時代に御家人のせがれが布衣以上になるなどということは、今の書生が大臣になるというよりはモット素晴らしい突飛なことをいう様に聞こえたということである。
【松平正親「旧幕府旗下の制度に就て」『史談会速記録 第261輯』】
イタズラをしたから、縄で縛って井戸の中につるすというのはずいぶん乱暴な話で、現代なら児童虐待だとして間違いなく警察に逮捕されるはずです。
「布衣(ほい)」というのは武家の官位で六位に相当し、旗本の中でも「重き御役人」とよばれる上級職のことです。
ちなみに老中でも四位ですから、六位というのは相当な地位です。
吉兵衛は幕臣の中でも最下層の御家人であり、聖謨が養子に入った川路家もわずか50俵の小普請組御家人ですから、上級旗本になるなどというのは「夢のまた夢」のような話でしたが、聖謨も弟の井上清直もそれを実現しています。
吉兵衛のスパルタ教育がみごとに成果をあげたといえましょう。
兄二人は人間、末っ子は豚犬
川路聖謨と井上清直は大出世したのですが、末弟はどうだったのでしょう。
先ほどの「名家逸事 川路聖謨」にはこのような記述があります。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、句読点とカギ括弧をおぎなっています)
吉兵衛男の子三人あり。
長はすなわち聖謨、次は清直、次は幸三郎という。
常にいうには「伯仲はあるいは人と成るを得べし、季は豚犬のみ」と。
因って伯仲は他姓を嗣して、季は家に留めしが、果して聖謨清直は顕職に登りしに、幸三郎は新潟奉行支配組頭より新番に転じて終れり。
古来中国では、男の兄弟を上から順に、伯(長男)・仲(次男)・叔(三男)・季(末っ子)と呼びます。
つまり伯仲とは長男次男で聖謨・清直のこと、季は末っ子の幸三郎をさします。
兄二人はエライ人になるかも知れないので他家に養子に出すが、末っ子の幸三郎はダメだから恥ずかしいので内藤の家に置いておくことにしたのです。
しかし「豚犬のみ」とはひどいですね。
ついでにいうと、長男と次男はあまり離れていないことから、実力が接近していることを「伯仲」というようになったそうです。
もうひとつよけいなことをいうと、同じ「おじさん」でも親より年長であれば「伯父」、年少であれば「叔父」と書きます。
もっと教育したかった
以前にも書きましたが川路聖謨は17歳で筆算吟味に合格しています。
水谷三公国学院大学教授の『江戸の役人事情』(ちくま新書)によれば、筆算吟味は公平な試験ではなく勘定所役人の惣領息子は優先的に合格させていたようなので、部外者の川路が合格したというのは相当な学力があったことを示しています。
弱冠17歳で筆算吟味に合格するほどの学力をつけたのですから、教育するという目標は達成できたと思うのですが、吉兵衛はまだ途中だと考えていたようで、合格を喜ばずにこんな感想をもらしていたそうです。(読みやすくするため、現代仮名づかいに変えています。原文はこちら)
かれ(聖謨)は、かなりの材木になるかも知れずと思い、七八歳の時より、肥しをなし、あしき芽は芟(かり)取、成長の後をはかるに、皆よりて縁日の鉢植となして、早く売らんとす。
さてさて是非もなきことなり。
併(し)かれども望あるゆえに、それに任せて、われは何ともいわず。
【川路寛堂 編『川路聖謨之生涯』吉川弘文館】
もっと勉強させて鍛えたかったけれども、周囲の者がはやく受験させろというので仕方なかった、しかしまわりの期待もあるからそれを尊重して黙っていた、というところでしょうか。
勉強については川路自身も同様に考えていたらしく、「もう10年も勉強できていれば、その益も多かっただろうに早く出仕してしまったのは、今更ながら残念に思う」ともらしていました。
その残念さをおぎなうためか、川路は仕事以外の時間は読書や武術の稽古にはげみ、遊んでいる時間はほぼありませんでした。
このような生活スタイルは「働いて×5」で取り上げたワーカホリックの島津斉彬とおなじです。
だから二人は周囲から「時事談の友」と言われるほど、意気投合していたのでしょう。