vol.206「五街道と伝馬制度」について
すべての道は日本橋に通ず。日本の国道の起点とされている日本橋。その由来は江戸時代に五街道(東海道、甲州街道、奥州街道、日光街道、中山道)の起点とされたことに始まり、現在も国道1号をはじめとする7路線の起点となっている。現在の日本橋上部には高速道路が整備されているが、2035年にはこれを地下化して、日本橋はかつての姿を取り戻す予定だとか。
邪魔くさい高速道路がなくなるのは良いのだが、計画されてるイメージ図からは「かつての姿」どころか「ネオトーキョー感」がプンプンするんですけど。。
まあ、未来のことは忘れて過去の話をしましょうか(普通はその逆ですがね)。
● 街道のこれまでの歴史について
街道とは、街と街をつなぐ道路のこと。厳密に言えば、街だけでなく神社や寺をつなぐこともある。そういった道路がいくつも作られることで、交通網が発展していった。
日本の街道の歴史は原始時代にまで遡る。しかし、この頃は街道を作る技術力がまだなかったため、原始時代における街道は「けもの道」。なお、当時使われていたと考えられる丸木舟が出土していることから、原始時代から水上交通が存在し、各地と交流していたと推測されている。
その後、統一政権が誕生する飛鳥時代になると、街道を整備する技術力が発展。中央政権とその周辺の有力者が住むエリアなどを行き来するために、幹線道路が誕生した。それが「七道駅路」。これは、畿内を起点とした「東海道」「東山道」「北陸道」「山陰道」「山陽道」「南海道」「西海道」の7つの街道を指す。
飛鳥時代には「駅伝制」を用いることで、要所に「駅制」や「伝馬制」が設けられた。主に政令などの伝達に利用していたため、官人や公使の移動がほとんど。一般庶民も利用することは可能であったが、基本的には税を納めるための移動など、公的な目的で利用されていたと云われる。
その後も街道は増え、鎌倉時代には京都~鎌倉間の交通網が発達。駅に代わり「宿」という言葉を用いるようになってからは、宿場周辺がさらに繁栄し、経済の中心地となっていった。また、「伊勢参宮」や「高野詣」が一般的になり、街道を使った庶民の移動が始まったとされている。
● 江戸時代になると「五街道」が誕生
五街道の整備に着手したのは、もちろん江戸幕府を開いた徳川家康。家康は、征夷大将軍に就任する2年前の慶長6年(1601)頃から、東海道の整備を開始。慶長9年(1604)には、各街道の起点が江戸の日本橋に定められた。そして翌年には、2代将軍に就任した徳川秀忠が五街道を基幹街道と定め、整備を本格化させる。
五街道は幕府直轄の街道で「宿駅制」を設けていた。1里(約3.9km)ごとに一里塚を設け、街道沿いに杉や松などの並木が植えられた。一里塚は、距離の目印にするためのもので、旅行者がどれだけ進んだかという目安にしたり、かごに乗った際の運賃の目安にしたりしていたという。並木を植えること自体は昔から行われていたが、江戸時代に一般的になった。その他、側溝が整備されていたことや、道路標識が整っていたことなども五街道の特徴である。
家康や秀忠が街道を整備した狙いは、軍用のためだった、ともいわれている。家康が東海道の整備に着手した頃は、まだ平和には程遠い時代。大坂では、豊臣秀吉の跡を継いだ秀頼が大きな勢力を保っており、豊臣家に味方する大名もたくさんいた。そこで家康は、関西方面にスムーズに行軍できるように、東海道を整備・拡張したのである。他の街道も、基本的には行軍を意識してつくられている。
平和な世が到来した後も、五街道は大名の参勤交代に用いられた。軍隊が通りやすいように設計された街道は、槍(やり)や弓などの武器を携えながら進む参勤行列には最適な道だった。
なお参勤交代とは、大名が1年おきに江戸に行き、1年間江戸で働くこと。そして、大名は江戸での任期が終われば、自分の藩に戻り仕事をしなければならない。また、江戸へは大名1人が行くわけではなく、幕府に指定された人数のお供を連れていく必要がある。
大名は駕籠での移動になるが、他の人は徒歩での移動だ。そのため、例えば仙台から江戸に向かうとすれば、7泊8日ほどかかったと言われている。多くの人数が長期間旅をすることになるため、必然的に街道沿いや宿場周辺は賑わった。このとき、大名が泊まる場所を「本陣」大名の家来が泊まる場所を「旅籠」と言った。
また、当時の日本の街道には「関所」が設置されており、江戸に人質として住んでいる各地の大名の妻や子どもが通過しないか、江戸に武器などを持ち込んでいないかなどをチェックしていた。
五街道が整っていることで参勤交代はしやすくなったが、参勤交代の費用負担が大きいために大名は経済的に困窮。そのため、大名は江戸幕府を倒すほどの力をため込めなくなった。これにより、江戸時代は長期に亘って安定した政権維持や、各地の宿場を繁栄させることができたのである。
また、五街道によって江戸文化を地方にも伝えることで、庶民の文化や生活が発展していったことも、江戸幕府が繁栄した理由だと言われている。さすが家康様、すべて計算づく。
● 浮世絵にもなった「東海道」
東海道は、現在の神奈川県や静岡県、愛知県など太平洋側を通って京都の三条大橋に至る、約492kmの街道である。道中には53カ所の宿場町があり「東海道五十三次」と呼ばれた。(ただし実際には、宿場町は57カ所あったことが分かっているらしい)
東海道では、左手に海を眺めながら進み、小田原からは箱根の山を通ることになる。箱根は道が険しい難所であるが、芦ノ湖や富士山の絶景が、旅の疲れを忘れさせてくれた。海・川・山と変化に富む東海道の風景は、江戸時代後期の浮世絵師「歌川広重」が描いたことでも知られている。その話はまたいつかしよう。
● 五街道のなかで最も長い「中山道」
中山道は、群馬県や長野県、岐阜県などの山間地を通って京都の三条大橋へと続く街道である。距離は約534kmと、五街道中最長を誇る。宿場町も69カ所と最多で、東海道と並ぶ幹線道路として知られている。
中山道は峠が多く、人や馬にとっては厳しい道のり。しかし、東海道と比べて人の往来が少なく、川の氾濫で足止めされる心配もないため、予定通りに進めるメリットがあった。このため、幕府や朝廷にかかわる重要な連絡・行事の際には、必ず中山道を使ったといわれている。幕末に、皇女和宮が14代将軍徳川家茂に輿入れするときも、やはり中山道を通っている。
● 平坦な道のりで、歩きやすい「日光街道」
日光街道の終着点は、徳川家康を祀(まつ)る日光東照宮である。将軍家や諸大名が、東照宮へ参拝するルートとして整備された。なお、幕府による正式名称は「日光道中(どうちゅう)」であり、また現在では、東京都が道路名として定めた日光街道と区別するために、「旧日光街道」と呼ばれることもあるとか。
日光街道の距離は約144kmで、21カ所の宿場町があった。東照宮への参拝は、庶民にも許されていたうえに、平坦で歩きやすかったことから、日光街道はいつも多くの人で賑わったと伝わっている。
江戸時代に活躍した俳人「松尾芭蕉」が記した「奥の細道」で、芭蕉が歩いた場所とも重なる。
● 蝦夷地につながる「奥州街道」
奥州街道は、栃木県や福島県を通って、津軽半島北端部の三厩(みんまや)に至る道である。ただし、幕府が管理したのは日本橋から福島県白河市までで、正式には、この区間が奥州街道とされている。また、日本橋から宇都宮までは、日光街道と重複していることも覚えておくように(私がね)。
白河から三厩までは「仙台道」「松前道」と続き、幕府の役人や東北諸藩が管理していた。このため、一般的には、白河から先もまとめて奥州街道と呼んでいるそうな。江戸時代中期以降は、蝦夷地開発にともなって通行量が増え、整備がいっそう進んだという。
● 避難路として整備された「甲州街道」
甲州街道は、日本橋から八王子や山梨県甲府市を通って、中山道の下諏訪に合流する道である。距離は約205km、宿駅は45カ所。甲州は武田家の領地であるとともに、金の産地でもあり、江戸幕府が直接治める天領に指定されていた場所でもある。軍事的にも要となっていた街道で、万が一、江戸城に危機が及んだときは、甲州道中を通って甲府城に立て籠る案が立てられていたほど。
このため、宿場町の出入り口や甲府城付近には、追っ手をかわすための分かれ道や、見通しを悪くして攻撃を防ぐための直角に曲がる道などが見られる。江戸時代中期以降は、長野や山梨の農産物を運ぶ流通経路の役割を担うようになり、江戸市民の暮らしを支える大動脈として発展した。
● 伝馬制度について
徳川幕府は慶長6年(1601)東海道に伝馬制度を定めた。三河・尾張両国内には、二川(ふたがわ、豊橋市)・吉田・御油(ごゆ、豊川市)、赤坂(宝飯郡音羽町)、藤川(岡崎市)・岡崎・池鯉鮒(ちりゅう、知立市)、鳴海(名古屋市)、宮(名古屋市熱田)の九宿が配置され、それぞれ伝馬36匹の常備が定められた。
交通量が増えるに伴い、寛永15年(1638)には一宿につき、人足100人・馬100匹に拡充された。
中山道木曽路木曽11宿では木曽馬を使用し伝馬を行った。各宿場に人足50人、馬50頭を備えなければならなかったが、充足が困難だったために万治2年(1659)幕府に25頭に減らしてもらえるように請願し、万治4年から25頭となったが、寛文5年(1665)再び幕府は50頭とした。元禄13年(1700)までたびたび馬の数を減らせるよう請願した結果、再び25頭体制となったが、勅使、公卿、老中等の往来が多く、重要な通交の際は尾張から美濃馬を借りて伝馬とした。
宿には御合力と呼ばれる助成金が支給されたが、直轄領ではない宿には支給されず負担となっていた。吉岡宿では負担に耐えかねた住民が去り、一時期衰退した。
● 三伝馬町の起源と「馬込勘解由(まごめかげゆ)」について
江戸の都市形成において、交通と物流を担った制度のひとつ「伝馬役」は、街道や城下において人馬を供出し、公用輸送を支える重要な役務であった。現在の中央区に位置する宝田神社は、この伝馬制度と深く関わる「三伝馬町」の成立と、密接な関係を有している。
天正18年(1590年)、徳川家康が江戸に入城した当時、呉服橋付近には宝田村、常盤橋付近には千代田村という集落が存在していた。
家康はこの地の有力者である
・佐久間善八
・馬込勘解由
・吉沢主計
・高野新右衛門
・小宮善右衛門
・宮辺又四郎
らに伝馬役を命じ、江戸における輸送体制の基盤を整備した。
中でも馬込勘解由は、遠江国馬込村の出身で、家康に従って江戸へ入った人物とされる。入城時に駄馬や人足を率いて貢献した功績が評価され、伝馬役に取り立てられたと伝えられている。
慶長11年(1606年)、江戸城拡張に伴い宝田村・千代田村は移転を命じられ、伝馬役を担う人々はそれぞれ新たな町に配置された。
• 佐久間・馬込 → 大伝馬町
• 吉沢・高野・小宮 → 南伝馬町
• 宮辺 → 小伝馬町
これにより、大伝馬町・南伝馬町・小伝馬町の三町が成立し、総称して「三伝馬町」と呼ばれるようになる。
このうち、大伝馬町と南伝馬町は街道における宿継輸送(道中筋伝馬)を担い、小伝馬町は江戸市中の輸送(府内伝馬)を担当するなど、機能分担がなされていた。また、これらの町の伝馬役は特権的な地位にあり、苗字帯刀を許されるなど、幕府から厚遇されていたことが知られる。
宝田神社は、もともと宝田村に所在した馬込勘解由の邸内に祀られていた神社に起源を持つ。家康より賜った恵比寿神を祀ったものであり、村の移転に伴って現在の大伝馬町へ遷座された。これが現在の宝田神社である。すなわち同神社は、江戸初期の都市整備と伝馬制度の成立を象徴する歴史的遺構の一つといえる。
また、大伝馬町は江戸初期から木綿問屋が集積した地域としても知られる。その背景には、馬込勘解由が伊勢から商人を招いたという説があり、尾張・三河・伊勢出身の商人たちが木綿流通を担ったとされる。
当時は海上輸送が未発達であり、陸路による輸送が主流であった。そのため軽量で運搬しやすい木綿は流通に適しており、伝馬制度と密接に結びつきながら発展していった。こうして成立した木綿商業の基盤は、時代を経て変化しながらも、大伝馬町・小伝馬町の地域性として現代にまで継承されている。
おお、、! 五街道についてまとめていたら、伝馬制度について触れることになり、ついでに大伝馬町・小伝馬町のルーツを調べたら、とうとうあの「馬込勘解由」に再会してしまった。そう、彼とは初めましてではない。この名前は一度聞いたら忘れられぬ。
最初の出会いは、このメモブログの vol.9「日本橋べったら市」を見物 の時だ。その際に買った本『江戸の名主 馬込勘解由』を読んだのだが、内容が固すぎて数ページで挫折し、結局そのまま放置して、かれこれ約2年半が経っていた。
これにて伏線回収!としてチャチャっと逃げたいところだが、実は結構重要な隠れキーマンっぽいので、一応ちゃんと調べて次回まとめてみます。2年半も逃げ続けてきたツケを払う時が来ちゃったみたいなので。
(てゆーか2年半前の未回収伏線をちゃんと覚えてる私を誰か褒めてほしい)
参考
https://www.touken-world.jp/shukubamachi/
https://hugkum.sho.jp/458414https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c08604/