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偉人『フリーダ・カーロ』

2026.07.10 00:00

フリーダ・カーロの自画像を一度見にするとその印象は強く忘れることはできない。まっすぐ正面を見つめる強い意志を感じる視線、太い一本の繋がった眉に、口元にうっすらと生えた髭、メキシコの伝統的衣装に身を包んだフリーダ・カーロ自身の自画像は、個性が際立ち独創的で他の作家とは一線を画している。女流画家の自画像といえばタマラ・ド・レンピッカの作品もシャープさと鋭い視線が特徴的だが、フリーダ・カーロの作品はレンピッかの自画像よりもその眼差しに宿る力は、見る側の内面を射抜くような意志の強さを感じさせる。

47年という短い生涯で150余の作品の中でも55作の自画像を描き、その作品の全てが自分の内面や肉体的苦痛と向き合った作品ばかりである。一体彼女は何を思い、何を望み、過去の経験がどう影響し、自分の内面と向き合うをフリーダ・カーロの人生から学んでみようではないか。

フリーダ・カーロは1910年7月6日メキシコシティの近郊にあるコヨアカンで、ハンガリー系ユダヤ人でドイツ出身の写真家ギリェルモ・カーロを父に持ち、母マティルデ・カルデロン=イ=ゴンサレスは先住民とスペイン系の血を引いていた両親の間に4人姉妹の三女として誕生した。父ジェルモ・カーロとフリーダは幼い頃から結びつきが強く、父から写真や芸術(水彩画)の興味を育まれた。そして彼女を語るときに切っても切れないのが病や事故で受けた健康被害である。彼女は幼い頃小児麻痺(ポリオ)を患い、約9か月もの間寝たきりの生活を送った。回復後も右脚が左脚より細くなりせいちょとともに長さも異なり、それを隠すように長いスカートで足を隠し、足を引き摺るように歩きその歩き方を嘲笑されることもあった。以前彼女の特集記事で彼女の遺品の靴を見た記憶があるが、一見メキシコ風の華やかな装飾と色合いで足の特徴が隠されてわからないのだが、目を凝らすと左足はロウヒールで、右足はかなりの厚底で左右非対称の足の長さをカバーする靴であり、日常生活にも支障をきたしていたことが容易に想像できる者であった。下の写真はおそらくポリオに罹患する前の写真であろう。

そんな病気を患う彼女だったが父は娘に深い愛情を示し、子供同士の鋭い言葉に傷つく娘を労り、娘の体を案じ体を丈夫にするために様々なスポーツを勧めた。当時の女の子としては珍しくサッカーや水泳、ボクシングなどに親しみ活発に過ごしたこの経験は父なくしては成し得ず、後に困難に立ち向かう強い精神を育てたと言われている。フリーダはかなり賢い子供でもあり名門の国立予科高等学校へ進学し、勉強熱心で活発な性格から友人にも恵まれ、幼い頃の病気の経験から医師を目指して学んだ。

ところが18歳で恋人と乗っていたバスと路面電車の衝突事故に巻き込まれ、生死の境を彷徨う重傷を負ってしまう。何度も手術を受け石膏で固められ身動き一つ取れない状況で、孤独に体の痛みに耐えた状況で長期間ベッドで過ごすことになった。

ここで彼女の強さを確認できる話がある。事故後フリーダは父にせがんで鉛筆とキャンバスを用意してもらい、ベッドに横になった状態で動く手だけでスケッチをした。最初に描いたのは自ら絶望と苦悩に陥れたバス事故の状況である。またその後自分自身を見つめるために、母にベッドの真上の天井に鏡を設置させた。そしてベッドには描くための装置を支えるために天蓋もつけてもらったのである。鏡は自分を見るため、天蓋は横になったまま描くためで、どちらも療養中の制作を可能にする必要なものだった。その環境が後に世界的に知られる数々の自画像や作品の誕生に繋がったことは言うまでもない。つまり彼女の画家としての人生の出発点がそこであり、困難な状況で必死に何かを生み出そうとする起点であり、どんなことが起きても自分は表現すると言う固い決意の出発地点であった。

ではここでフリーダ・カーロが真正面から自画像を描き、自らの内面を見つめ続けた理由4つについて挙げてみる。それは彼女の残している言葉ら推察できる。後にフリーダはこう語っている。「私は自分自身を描く。なぜなら、私は一人でいることが多く、自分自身が最もよく知っている題材だから。」と。

つまり1つ目の理由はフリーダにとって自画像描くことは単なる肖像画ではなく、寝たきりの状態で描ける題材は自分しかいなかったということだ。

2つ目は苦しみから目をそらさなかったことである。彼女は生涯にわたって事故の後遺症や手術、慢性的な痛みに苦しみ、結婚後は夫ディエゴ・リベラの不倫(実の妹との不倫)や離婚、再婚など精神的な苦悩も抱え、その苦しみを隠したり美化したりするのではなく、真正面から見つめて作品にしている。ここでは社事情がありその作品を紹介はしないが、痛みを抱えている人にとっては衝撃的なので閲覧は控えた方がよい。それほどに真正面すぎて当時も賛否両論評価が分かれたらしい。

3つ目は彼女の作品の根底に流れている重要なものである。その重よなものは「自分とは何者か」を問い続けたことだ。彼女は作品を通して、「私は誰なのか」「私は何を感じているのか」「苦しみの中でも私はどう生きるのか」という問いを繰り返し表現している。そのため彼女にとり自画像は「顔を描く」ことではなく、内面を映し出す鏡であった。

4つ目が最大の作品の特徴である痛みを芸術へと変えたことである。彼女にとって絵を描くことは、苦しみから逃げる手段ではなく、苦しみと向き合い、それを表現へと昇華する者であった。彼女は現実を否定するのではなく「痛みも自分の一部」として受け止め、そのままキャンバスに描いた。本当に強い人物である。

ここから彼女がなぜ「真正面から」向き合えたのかを考察してみる。

フリーダ・カーロは、自分の痛みや感情を避けたり飾り立てたりするのではなく、それらを真正面から見つめることで自分自身を理解しようとした。だからこそ彼女の自画像は、観る側にも「自分自身の内面と向き合うこと」の意味を問いかける力を持っている。苦悩や痛みを敵として排除するのではなく、痛みも含めた自分全体と向き合うということを地道に進めたのではないだろうか。そして彼女は自らの人生の全てを作品に投影させていた。つまり彼女にとって作品全てが、自分の人生そのものを語るための手段だったと言える。そのことを裏付ける発言も残している。「私は夢を描くのではない。私自身の現実を描く」と。

ではその他人でもその苦難や困難から目を背けたくなるものから逃げ出すことなく、真正面から向き合えたか。それはもう幼い頃から彼女をサポートしていた両親の愛情が基盤にあったからだと私は考える。その基盤になったであろうと考察する理由を3つほど述べておこう。

まず一つ目。子供の頃のポリオ罹患である。幼児がポリオに罹患する場合、多くの感染者は重い症状には至らないが、ごく一部で神経が侵されると深刻な後遺症が残ることがある。彼女はその深刻な後遺症が残った。足に力が入らなくなり、片方の脚に麻痺が起こり、痛みが感覚として保たれてしまい、麻痺した筋肉が細くなり、成長とともに左右の手足の大きさに差が出てしまったのだ。幼少期の9ヶ月の闘病生活とその後の苦悩は幼心に偏見やからかいなどを受けてしまう辛さは、幼いながらに感じ取っていたとは思うが、それをカバーしたのが両親である。彼女を守り励まし、彼女のために何をすべきかを全力でサポートし続けた。特に父ギリェルモ・カーロは娘が引け目を感じないようにと、当時の女の子としては珍しかったサッカー

・水泳・ボクシングのほかにハイキングや自転車にさえ乗るように「体を鍛え、自分を信じなさい」という姿勢で接し、フリーダの強い精神力を育てたと言われている。足にハンディキャップを抱えると難しそうな運動にさえ挑戦をさせ、当時としては女児が行わないスポーツでもあるのだ。やればできる、困難ももろともしない強さを育てたからこそ、18歳のあの交通直までは明るく友達の多い少女に成長したのであろう。

また彼女は写真家の父の仕事を手伝い、父の仕事場で写真の現像やレタッチを手伝い、観察力や構図、美術への感覚を自然に身につけていったとされている。彼女の研究者の中にはこの経験が後の自画像の構図や、細部を丁寧に描く姿勢に影響したと考える人もいるという。そして何より父は娘の才能を早くから信じていたと考える。交通事故で長期間寝たきりになった娘を父は強く励まし、絵の具や画材の用意を手伝い、芸術家としての道を歩み始めた娘を支えたのである。よって父娘の結びつきは大変強く、彼女にとって大きな精神的支えだったと考えられている。フリーダは父を非常に尊敬しており、彼の肖像画も描きその肖像画には父を称える献辞が添えられている。「私の父。寛大で、知的で、勇敢な人。苦しみに耐え、ヒトラーに反対し、心から祖国を愛した。」この言葉からも、フリーダが父を人格的な手本として見ていたことがうかがえる。こうした支えがあったからこそ絶望だけで終わらず、「描く」という表現へ向かう力に繋がったのではないだろうか。

上記の作品には「¡Viva la Vida!」という言葉が書き添えられている。日本語では、「人生万歳!」「生きること、万歳!」「人生よ、永遠に!」などと訳されるようであるが、フリーダは長年、交通事故の後遺症や慢性的な痛みに苦しみ、亡くなる前年には右脚を切断しそれでも、この鮮やかな赤いスイカに「¡Viva la Vida!(人生万歳!)」と書き残した。この作品は亡くなるわずか数日前に完成したと考えられており、多くの人が彼女の最後のメッセージとして受け止めている。ただし、この言葉については「人生への歓喜」と見る解釈だけではない。苦しみを知り尽くしたからこそ、それでもなお「人生を肯定する」という強い意志の表れと同時に、他に「Espero alegre la salida y espero no volver jamás.」と言う言葉を残している。日本語では、「喜んで旅立ちを待つ。そして、二度と戻って来ないことを願う」、或いは「私は喜びをもってこの世を去る時を待っている。もう二度と戻って来ないことを願いながら。」と訳されている。この言葉はフリーダが亡くなる直前に日記へ書き残した一節として広く知られているが、「戻って来ない」とは何を意味するのかと考えさせられる。この「戻って来ない」は、「もう苦しみに満ちた人生へ戻りたくない」という意味に受け取られることが多い一方で、彼女自身がその意図を明確に説明したわけではない。しかし長年にわたる交通事故の後遺症、何十回にも及ぶ手術、慢性的な激痛、右脚の切断、心身の衰えといった後年の状況を考えると、「これ以上この苦しみを繰り返したくない」という心情が込められているのではないだろうか。この2つの言葉は一見矛盾しているように見えるが、「人生を深く愛し生き抜いたからこそ、その激しい苦しみからは解放されたい」という、フリーダ・カーロの複雑な心境を表しているのではないだろうか。真正面から受け止め、それが長年、そして日々の生活全てに関わることであればと想像するだけで苦しいものである。しかし彼女は逃れることができない状況に人生数リットルの涙を流したと語った後に、その状況から生まれる様々な思いのガス抜きを絵を描くことで心のバランスをとっていたのである。心身一如が大切なのだ。

心身一如、先日鍼の先生に教えてもらった言葉である。今まさに私もフリーダのように内面と向き合う修養の只中にいる。「生きること、万歳!」とフリーダのように言えるように明朗に物事を考えてみることにする。


今回の偉人の『フリーダ・カーロ』から自分自身を見つめ直すことを学び、次回の偉人『ダライ・ラマ』で自分自身より他者に向ける慈愛についての記事を予定している。そちらもお時間があれば覗いてみてください。