幕末史
みなさんはいわゆるペリー来航から明治維新までの「幕末史」から何を連想しますか? 「黒船」?「志士」?「西郷隆盛」?「坂本龍馬」?「新撰組(近藤勇、土方歳三)」?。。。「幕末史」に関してはテレビなどでもよく取り上げられる題材ですが、興味ある人とない人でその差が大きいように感じます。自分も恥ずかしながら以前は後者に属してましたが、昨年「龍馬がゆく」(著者 /司馬遼太郎)を読んでからは前者へ傾きつつあります。
そんな個人的な思いもあり、今回ご紹介するのは、半藤一利さんの「幕末史」です。幕末史は1853年の黒船来航から始まります。黒船の派遣元、アメリカはペリーを通して幕府に貿易を迫り、江戸幕府(大老、井伊直助)は独断でそれを認めてしまいます。この黒船来航から「外国人を日本から追い出そう」(攘夷論)という機運が盛り上がりますが、幕府はその攘夷派活動家を厳しく処罰します(安政の大獄)。この結果、井伊直助は反対派からの強い反感を買い暗殺されます(桜田門外の変)。その後の紆余曲折後、長州藩(尊王攘夷派/外国人を倒し、天皇中心の政治をめざした)と薩摩藩(公武合体派/幕府と天皇が協力する政治をめざす)が同盟を組み(薩長同盟)、次第に徳川幕府は政治の隅へと追いやられます。ついに最後の徳川家将軍、慶喜(よしのぶ)は「政権を朝廷へ返す」と宣言します(大政奉還)。そして、この後、(旧)幕府軍と新政府軍(薩長藩中心)との戦い(戊辰戦争)で、旧幕府体制は崩壊し、時代は「明治」へと移ります。この辺りまでがいわゆる「幕末史」です。
さて、この幕末史については、(当然といえば当然なのですが、)明治から現在において官軍(勝ち組)となった薩長側の視点で語られることが多いのですが、本書はあえてその「薩長史観(=皇国史観)」に異を唱え「反薩長史観」の視点で幕末史を語っているのが特色となっています。本書では、(半藤さんは、)「『明治維新』を下級武士による(暴力)革命であるとし、明治維新後の十年間におこなわれたことも権力闘争であった。」と論じています。「いまも薩長史観によって、1868年の暴力革命を誰もが『明治維新』といっています。けれども、明治初年ごろの詔勅(しょうちょく)、御誓文、太政官布告、御沙汰や御達しの類を眺めてみると、当時は維新などという言葉はまったくと言っていいほど使われてはいないようなのです。」(P12)、「明治になってどういう国家をつくったらいいかについて、皆がばらばらでした。スタートにおいては、天皇中心の神国日本の哲学に基づいて国をつくっていこうなどと考えた人はほとんどいませんでした。」(P219)ですから、「では、統一の機軸は何なのか。新政府の”革命家”たちはほとんど何も考えていなかった。超越的なシンボルとして万世一系の天皇を機軸とすることに思いつくのはずっと後のことである。つまり、明治十年までに国家運営の基礎はどうにか打てたかもしれないが、仏造って魂入らず、薩長が真の国家統一のための精神的権威を獲得するのは、まだ先のことなのである。」さらに、巻末(P461)では「『維新』とカッコよく呼ばれていますが、革命であることは間違いないところです。将軍を倒し、廃藩置県によって自分の属している藩の殿様を乗り越え、下級武士であるものが一斉に頂点に立つ。つぎにどんな国を建設するのか、という青写真も設計図もビジョンもほとんどなくです。」と語っています。
うーん。たしかに「はじめの章」において、「これから語ることは『反薩長史観』となることは請合います。」と書いている通り、半藤さんは薩長史観への反発が強いですねえ。「昭和史」などでも戦争を起こした軍部の人間について批判していますが、ここまで強い書き方はしていなかったと思います。では、それはなぜでしょうか?
実は、本書の一番最初の書き出しである「はじめの章」はこんな記述で始まっています。「私は昭和五年(1930年)に東京は向島に生まれました。日中戦争のはじまった昭和十二年に小学校に入学してから六年間、そして昭和十八年に入学して大日本帝国が降伏するまでの中学三年間、まさしく戦前の皇国史観、正しくは「薩長史観」によって、近代日本の成立史を徹底的に仕込まれました。つまりは”官軍”と”賊軍”の史観です。。。とにかく、薩摩や長州や土佐の勤皇の志士たちこそが、正義の味方で、尊皇のスローガンをかざして、皇国に仇(あだ)なす徳川幕府とそこに加勢する賊軍どもを撃破し、美(うるわ)しの皇国をつくったのだと、そう国史の授業で教えられたのです。」
半藤さんや当時小学生の皆さんが授業で習った「皇国史観」における「天皇観」が、どういうものかと言えば、それは、南北朝時代に書かれ(神国日本の基本となった)北畠親房(きたばたけちかふさ)の「神皇正統記」(じんのうしょうとうき)がもとになっているらしいのですが、その出だしは「日本は神の国である。天にまします祖先がはじめてこの国を開き、皇祖皇孫、神の子孫が長くこの国を統治し、今日に伝えてきた。それは我が国のみのことであって、他の国にはない。従って我が日本はこれをもって神国というのである。」(現代訳)となっています。この書物を源流に水戸の徳川光圀(とくがわみつくに)が「大日本史」を書き(ただし、完成したのは明治になってから)、長州藩の吉田松陰など一部の志士が(その天皇観を)説いていったのです(ただし前述したように、幕末当時の国家的な世論であった攘夷論を唱えていた大多数の人々はそんなことはちっとも考えていなかったのです)。つまり、(おそらく)半藤さんが強く批判しているのは、後世の昭和の時代になって、(「大日本史」や吉田松陰の説いた「天皇観」を)時の為政者が国民を戦争へ駆り立てるのに利用するため「薩長史観=皇国史観」という構図をつくった、そのことに対してであり、半藤さんが強い調子で語るのは、それを学校教育で若者に教え、日本を戦争という誤った方向へ導いたことへの怒りなのだと感じました。
ところで、みなさんは幕末の人物で誰が好きですか? ちなみに自分が尊敬するのは勝海舟です。勝は、当時、日本人がやれ幕府派だとか、攘夷だとか、藩のことだとか、とにかく自分たちのことだけを考えていた時期に、個人の利害損得を超越して日本の将来を大局的に見据えて物事にあたった人物です。司馬遼太郎氏の「龍馬がゆく」ではこんな場面があります。(坂本龍馬は一時期攘夷派だったことがあり)龍馬が江戸にいたころ「勝の返答次第では切り捨てる。」と勝の家を訪問しました。(勝は当時、蘭学の権威で、また ”西洋かぶれ” でもあったのです。)勝は世界地図(地球儀?)を出し、日本を龍馬に示し、「外国列強が日本へ進出しようとしている今こそ、日本を大局的に見据えることが必要であり、日本海軍の設立が必要だ」と説いたのです。この話に感激した龍馬は勝にその場で「弟子にして下さい。」と平伏したのです。(実際、二人の出会いがこのようなものだったのか?はわかりませんが、)しかし、実際、勝のもとには、当時、龍馬のように「場合によっては切り捨てる。」と、自分の主張だけに凝り固まった人物が刀を持ってたびたび勝宅を訪れたようです。