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「宇田川源流」【土曜日のエロ】 女性を題材にした女性作家の性文学の軌跡

2026.06.19 22:00

「宇田川源流」【土曜日のエロ】 女性を題材にした女性作家の性文学の軌跡


 今週も土曜日のエロの日になった。一週間のブログの中で、このブログは、「人間の本質」をそのまま出すことのできる非常に面白い内容になっている。ある意味で、是枝家「エロの事件をすれbあ、その刑罰よりも大きな社会的な影響がある」にもかかわらず、ある程度社会的な地位を持っている人々が、いまだに性の犯罪をしてしまうのであろうか。学校や塾の教職員や医師など、そのような犯罪を行う人は少なくない。単純に昭和と現在の認識の違いからのセクシャルハラスメントというものであれば、まだ理解はできるのであるが、そうではなく、盗撮とか痴漢、不同意性向といったまあ、昭和の昔から犯罪を構成する内容を欲望に駆られて行ってしまうということはなかなか興味深いところです。

ある意味で、この内容に関して、「人間はなぜ性犯罪を行ってしまうのか」ということをしっかりと研究してみれば非常に面白いのかもしれません。ある意味で「犯罪」ではなく「性犯罪」というように限定してしまうということが、非常に面白い部分があるのではないかと思っております。

さて、私の個人の意見は別にして、今週は何があったかといえば、単純にG7のサミットがフランスのエビアンで行われたことと、イランの戦争の停戦交渉が妥結したということの二つです。G7サミットに関しては、ある意味で高市首相が経済安全保障に関して提案を行い、その提案に関して、中国を名指しして行ったことから、日本と中国の対立が際立っているということと同時にその内容がG7でオフィシャルに共同声明に残ったことから、中国包囲網ができたというような感覚があります。ある意味で、G7と上海協力機構というような二つの大きな枠組みができて冷戦がはじまるということになるのではないでしょうか。

もう一つは、イランの停戦ですが、これは8月18日までの60日間でその間にまた様々なことを交渉するということになっていますが、さてこれからどの様なことが話し合われるのでしょうか。ある意味で「信用が完全に棄損している二つの国」においても、停戦交渉というのはある程度できるという事であろうということがわかりますし、またその二つの国が話し合いで何とか模索をする60日間というのは、どのように進められるのかが非常に面白いところになるのでしょう。

 さて、今回はその様に「全体の流れ」から「二つの立場の違いを含んで表現がどのように変わってきたか」ということを見てゆきたいと思います。

<参考記事>

「女の性欲」はいかに文学になったか…男に描かれた女から、自ら書く女へ

6/6(土) 10:29配信 ニューズウィーク日本版

https://news.yahoo.co.jp/articles/19955675b482597dbcc263a6307d47c9776e3cb8

<以上参考記事>

 この記事は、近代日本文学において「女性の性欲」がどのように文学の主題となっていったのかをたどる内容です。特に明治末から大正期にかけての自然主義文学と女性文学の関係に焦点を当てています。

 記事によれば、明治後期の自然主義文学では、性欲そのものを人間の根源的な欲望として描く傾向が強まりました。ところが、その時代に描かれる女性の性欲は、多くの場合、男性作家が想像した「女性像」でした。たとえば、女性主人公が性的欲望に苦しんだり、恋愛に翻弄されたりする姿は描かれますが、その語り手は男性であり、女性自身の声ではありませんでした。

 そこに登場したのが、平塚らいてうらの『青鞜』の女性たちでした。彼女たちは、自らの恋愛や結婚、三角関係、同棲生活などを自分の言葉で告白し始めました。つまり、「男性が描く女性」から「女性が自らを書く女性」への転換が起きたのです。記事はその点を、日本文学史の重要な変化として位置付けています。

 この流れを長い時間軸で見ると、女性作家による性の表現は徐々に赤裸々になってきたように感じられます。実際には単純に「露骨になった」というより、「語る主体が変わった」という側面が大きいと考えられます。

 近代以前の日本でも、女性が性愛を語ること自体は存在しました。たとえば清少納言や和泉式部の作品には恋愛感情や情熱が豊かに描かれています。しかし近代社会では、「良妻賢母」という理想像が女性に求められ、性的欲望を持つ女性は公的には語られにくくなりました。そのため、女性の性欲は存在しないもの、あるいは男性に従属するものとして扱われることが多かったのです。

 二十世紀に入ると女性教育が広がり、女性自身が執筆し、雑誌を発行し、自らの経験を社会に発信できるようになります。『青鞜』はその象徴でした。さらに戦後になると女性の社会進出が進み、「女性も一人の人間として欲望を持つ」という考え方が広がります。文学は本来、人間の内面を掘り下げる芸術ですから、恋愛や嫉妬や性欲を隠してしまうと、人間そのものが描けなくなります。そのため女性作家たちは、次第に性を重要な文学的テーマとして扱うようになりました。

 さらに興味深いのは、近年の女性作家の性表現には「男性を興奮させるための官能描写」とは異なる特徴が見られることです。むしろ性欲そのものよりも、孤独や承認欲求、自我の確認、結婚制度への違和感、人間関係の支配と依存などを描くために性愛が用いられる場合が少なくありません。文学研究でも、男性視点の作品には女性を外見や性的対象として捉える傾向が見られる一方、女性視点の作品では女性を主体的な人格として描く傾向が確認されています。

 では、なぜ近年になってより赤裸々な表現が増えたのでしょうか。

 一つには、女性の経済的自立があります。かつては結婚や家庭への依存が強く、性に関する率直な発言は社会的な不利益を招く危険がありました。しかし現代では女性が職業や収入を持ち、自らの人生を選択できるようになったため、語ることへの心理的障壁が低くなりました。

 もう一つは、フェミニズムやジェンダー論の影響です。「女性の身体や欲望を男性が定義するのではなく、女性自身が語るべきだ」という考え方が広まりました。その結果、従来なら「はしたない」と抑圧されていた経験も文学として表現されるようになったのです。

 さらに文学市場の変化もあります。現代の読者は、建前ではなく本音や実体験を求める傾向があります。恋愛や結婚だけでなく、性的な悩みや欲望も人生の重要な一部であり、それを率直に描く作品に共感が集まりやすくなっています。

 ですから、「女性が赤裸々になった」というよりも、「これまで存在していた女性の欲望や経験が、ようやく女性自身の言葉で公に語られるようになった」と見る方が、歴史的には正確かもしれません。この記事が示しているのも、まさにその変化です。明治の自然主義文学では男性が想像した女性の性欲が描かれましたが、『青鞜』以降は女性が自らを語り始め、戦後、そして現代へと進むにつれて、その語りがより自由で率直なものになっていったという流れなのです。

 さて、ここまでは文学の話ですが現在ではSNSなど女性が公に表現する環境は今よりも増えております。そのSNSなどにおいても露骨な表現や赤裸々な表現は増えていますし、また、SNSに関しては経済的な自立とは少し関係がないでしょう。実際にあるのは女性の権利意識及び社会的地位の問題ではないかと思います。

長い歴史の中で、女性の性や欲望は存在していたにもかかわらず、公的な場で語ることが許されていませんでした。社会は男性の性的欲望についてはある程度容認しながらも、女性の性的欲望については「慎み深い女性像」に反するとして抑圧してきました。そのため女性は欲望を持たない存在として扱われることさえありました。

 ところが二十世紀後半以降、女性解放運動やフェミニズムの発展によって、「女性も男性と同じように主体的な人格を持つ」という考え方が広がりました。その結果として、「恋愛観を語る権利」「性について語る権利」「自分の身体について発言する権利」が社会的に認められるようになったのです。

 SNSはその変化を加速させました。従来の新聞や出版社は編集者や社会規範によるフィルターがありましたが、SNSでは個人が直接発信できます。つまり、女性が社会的承認を待たずに自分の経験を公表できる環境が生まれたのです。

 さらに興味深いのは、現在のSNSで見られる赤裸々な表現の多くが、必ずしも性的刺激を目的としていないことです。恋愛の失敗、夫婦関係の悩み、妊娠や出産の経験、性被害の告白、性的欲望そのものへの戸惑いなど、従来なら女性が黙っているべきとされた話題が大量に共有されています。

 つまり「性を語ること」が目的ではなく、「女性の経験を隠さないこと」が目的になっている場合が少なくありません。

 一方で、SNS特有の要因もあります。現代社会では「正直な体験談」や「本音」が価値を持つ傾向があります。特にSNSでは、建前よりも赤裸々な告白のほうが注目を集めやすく、共感や反応も得やすいという構造があります。そのため、男性女性を問わず表現が露骨になりやすい面があります。

 ただし、女性の場合には歴史的な背景があるため、単なる「目立ちたい」という現象だけではありません。

 百年前であれば、「女性が性欲について語ること」そのものが社会規範への挑戦でした。しかし現在では、「語ること自体」は正当な権利として認識されるようになっています。そのため現代の女性たちは、「女性も欲望を持つ」「女性も恋愛や性について意見を持つ」という前提の上で発信しているのです。

 その意味では、SNS上の赤裸々な表現の増加は、女性の権利意識の高まりと社会的地位の向上によって、「語る資格を獲得した」という側面が非常に大きいと言えるでしょう。

 ただし、もう一歩踏み込んで考えると、これは単なる女性の権利拡大だけではなく、社会全体が「プライベートな領域を公表する文化」へ変化した結果でもあります。男性も女性も、昔なら日記にしか書かなかった内容を世界に向けて発信する時代になりました。したがって、女性の赤裸々な表現の増加は、女性の地位向上という歴史的変化と、SNS時代の自己開示文化という現代的変化が重なって生まれた現象として理解するのが最も実態に近いと思われます。