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ほしのやしろ

何者でもないという奥義 〜力を抜いた先にある本当の私〜

2026.06.19 20:55


 エネルギーワーカーとしての第一歩、右も左もわからない時に、一番はじめ、

リーブスのプロテクション講義で、

 自分にプロテクションをかけ続けていくと、

自分自身がよくわかるようになる、そして最終的には、自分は何者でもないことに気付く。 

 と教わったことがあります。

 当時の私は、 「何者でもないって、どういうことだろう?」 と思いました。

 

 またその時からかなりたってから、別の機会にSVで、 

 何かをしようとすると抵抗が生まれる。 

だから、なるべく何かをしようとしないことも大切。 という指導を受けました。


 その時も意味はなんとなくわかるけれど、でもそれってどういうことだろう?と、腑には落ちていませんでした。 

 けれど最近になって、この二つの言葉が少し繋がって見えるようになったのです。 


 私たちはいつも「何者か」になろうとしている。

 私たちには名前があります。 

 そして、誰かの子どもであり、 誰かの親であり、 社会の中では様々な役割を持っていたりします。 

 母。 父。 妻。 夫。 会社員。 部長。 課長。

 生きている以上、それは必然であり、役割そのものが悪いわけではありません。

 ただ私たちは時々、 「母である私を頑張ろう」 「良い妻になろう」 「ちゃんとした社会人になろう」 と考え始めます。 

 すると、少しずつ力が入ります。

 本来の自分よりも、 役割を演じる自分が前に出てくるのです。

  

 出産を考えてみると面白いです。

 母親は、 「よし、母になるぞ!」 と考えて子どもを産むわけではありません。

 もちろん準備や覚悟はあります。

 けれど実際に出産という現象そのものは、 自然の仕組みの中で起こります。 

 時期が来れば陣痛が始まり、 身体は自然にその流れに入っていきます。 

 そこには、 「母である私をやらなければ」 という思考はありません。

 ただ自然が働いているだけです。

 

私たちの身体はとても正直です。

 本当はやりたくないことを続けていると、 身体が悲鳴を上げることがありますよね。

 体調を崩したり、 動けなくなったり、 強い疲労感が出たり。 

 もちろん全てがそうとは限りませんが。

 けれど、 

 「本当は違う」 

 というサインを身体が教えてくれることは少なくありません。

 

頭では、 「やらなければ」 と思っている。 

 でも私は、身体は、 「本当はやりたくない」 と言っている。 

 そのズレが抵抗として現れることがあります。


神話を読むと少し興味深いことに気付くと思います。

 物語の始まりに現れる神々は、 何かを征服したり、 誰かと戦ったりしているわけではありません。 ただ現れます。 

 ただ存在しています。

宇宙は宇宙。島は島。その存在そのものが神性として表現されています。 

 ところが物語が進むにつれて、 戦い、 支配、 統治、 役割、 という要素が増えていきます。 

 まるで人間が成長の過程で様々な役割を身につけていくようです。


植物のことを見れば、 種は、 「私は立派なひまわりになろう」 とは考えていないと思います。

 時期が来たら芽吹きます。 根を張ります。 葉を広げます。 そして花を咲かせます。

 ただ自分を生きているだけです。

 もし種が人間のように考えたら、 「芽吹いていいのかな」 「隣の花の方が立派だな」 「失敗したらどうしよう」 と悩むかもしれません。

 でも自然界はそんなことをしません。 だから伸びていくのです。

 

私は今、 「何者でもない」 とは、 何もない存在になることではないと思っています。

 むしろ逆です。

 母でもない。 妻でもない。 娘でもない。 ヒーラーでもない。 肩書きでもない。 

 そのどれでもあり、 そのどれにも縛られていない。


 役割よりもより中心にある存在。純度の高い自分。 

 それが「何者でもない」ということなのかもしれません

 私たちは本当の自分を見つけようと頑張るほど、 見つからなくなることがあります。

 覚醒しようと頑張る。 変わろうと頑張る。 成長しようと頑張る。 

 すると逆に抵抗が生まれてしまうのです。


 けれど、 力を抜いてみる。 何者かになろうとすることをやめてみる。

 すると不思議なことに、 自分の中にもともとあったものが見え始め、どれでも好きなように使えるようになる。


 自分の中の芽吹くべき種は芽吹き、 伸びるべき根は伸び、 咲くべき花は咲いていく。 

そういうことだな、と、芽吹きワークを通じて感じたのです。


 無理に作る必要はないのです。

 私たちは人生の中で、たくさんの役割を経験します。

 その全てが無駄ではありません。

 けれど最後には、 その役割を超えた場所にある 「ただ在る私」 へと還っていくのかもしれません。

 そしてそこに辿り着いた時、

 自分だけのオリジナルな流れに乗りながら、 無理なく、 自然に、 人生を歩いていけるのではないでしょうか。