何者でもないという奥義 〜力を抜いた先にある本当の私〜
エネルギーワーカーとしての第一歩、右も左もわからない時に、一番はじめ、
リーブスのプロテクション講義で、
自分にプロテクションをかけ続けていくと、
自分自身がよくわかるようになる、そして最終的には、自分は何者でもないことに気付く。
と教わったことがあります。
当時の私は、 「何者でもないって、どういうことだろう?」 と思いました。
またその時からかなりたってから、別の機会にSVで、
何かをしようとすると抵抗が生まれる。
だから、なるべく何かをしようとしないことも大切。 という指導を受けました。
その時も意味はなんとなくわかるけれど、でもそれってどういうことだろう?と、腑には落ちていませんでした。
けれど最近になって、この二つの言葉が少し繋がって見えるようになったのです。
私たちはいつも「何者か」になろうとしている。
私たちには名前があります。
そして、誰かの子どもであり、 誰かの親であり、 社会の中では様々な役割を持っていたりします。
母。 父。 妻。 夫。 会社員。 部長。 課長。
生きている以上、それは必然であり、役割そのものが悪いわけではありません。
ただ私たちは時々、 「母である私を頑張ろう」 「良い妻になろう」 「ちゃんとした社会人になろう」 と考え始めます。
すると、少しずつ力が入ります。
本来の自分よりも、 役割を演じる自分が前に出てくるのです。
出産を考えてみると面白いです。
母親は、 「よし、母になるぞ!」 と考えて子どもを産むわけではありません。
もちろん準備や覚悟はあります。
けれど実際に出産という現象そのものは、 自然の仕組みの中で起こります。
時期が来れば陣痛が始まり、 身体は自然にその流れに入っていきます。
そこには、 「母である私をやらなければ」 という思考はありません。
ただ自然が働いているだけです。
私たちの身体はとても正直です。
本当はやりたくないことを続けていると、 身体が悲鳴を上げることがありますよね。
体調を崩したり、 動けなくなったり、 強い疲労感が出たり。
もちろん全てがそうとは限りませんが。
けれど、
「本当は違う」
というサインを身体が教えてくれることは少なくありません。
頭では、 「やらなければ」 と思っている。
でも私は、身体は、 「本当はやりたくない」 と言っている。
そのズレが抵抗として現れることがあります。
神話を読むと少し興味深いことに気付くと思います。
物語の始まりに現れる神々は、 何かを征服したり、 誰かと戦ったりしているわけではありません。 ただ現れます。
ただ存在しています。
宇宙は宇宙。島は島。その存在そのものが神性として表現されています。
ところが物語が進むにつれて、 戦い、 支配、 統治、 役割、 という要素が増えていきます。
まるで人間が成長の過程で様々な役割を身につけていくようです。
植物のことを見れば、 種は、 「私は立派なひまわりになろう」 とは考えていないと思います。
時期が来たら芽吹きます。 根を張ります。 葉を広げます。 そして花を咲かせます。
ただ自分を生きているだけです。
もし種が人間のように考えたら、 「芽吹いていいのかな」 「隣の花の方が立派だな」 「失敗したらどうしよう」 と悩むかもしれません。
でも自然界はそんなことをしません。 だから伸びていくのです。
私は今、 「何者でもない」 とは、 何もない存在になることではないと思っています。
むしろ逆です。
母でもない。 妻でもない。 娘でもない。 ヒーラーでもない。 肩書きでもない。
そのどれでもあり、 そのどれにも縛られていない。
役割よりもより中心にある存在。純度の高い自分。
それが「何者でもない」ということなのかもしれません。
私たちは本当の自分を見つけようと頑張るほど、 見つからなくなることがあります。
覚醒しようと頑張る。 変わろうと頑張る。 成長しようと頑張る。
すると逆に抵抗が生まれてしまうのです。
けれど、 力を抜いてみる。 何者かになろうとすることをやめてみる。
すると不思議なことに、 自分の中にもともとあったものが見え始め、どれでも好きなように使えるようになる。
自分の中の芽吹くべき種は芽吹き、 伸びるべき根は伸び、 咲くべき花は咲いていく。
そういうことだな、と、芽吹きワークを通じて感じたのです。
無理に作る必要はないのです。
私たちは人生の中で、たくさんの役割を経験します。
その全てが無駄ではありません。
けれど最後には、 その役割を超えた場所にある 「ただ在る私」 へと還っていくのかもしれません。
そしてそこに辿り着いた時、
自分だけのオリジナルな流れに乗りながら、 無理なく、 自然に、 人生を歩いていけるのではないでしょうか。