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中野区 07 (20/11/25) 旧野方村 江古田村 (1)

2025.11.21 08:19

旧野方村 江古田村 (えごた)

小字 籠原 (こごはら、かごはら)

小字丸山 (まるやま)

小字 寺山 (てらやま)

小字 本多 (ほんだ)

小字 東本村 (ひがしほんむら)

小字 東和田 (ひがしわだ)

小字 西の原 (にしのはら)

小字 北の原 (きたのはら)

小字 下の原 (したのはら)

小字 上の原 (うえのはら)

小字 北原 (きたはら)

小字 南原 (みなみはら)



今日は旧江古田村にある史跡等を巡る。事前に調べると、江古田には見てみたいところが多く、一日では巡り切れないようなので、明日も含め2日間で巡る予定。哲学堂公園以外、ここ2日間で見終えた史跡を記載しておく。



江古田村 (えごた)

江古田は北は練馬区旭丘、東は旧中野村、南は下沼袋に接している。中野区江原町 (江戸時代の小名 原) の北に隣接している練馬区旭丘町にも江古田 (えこだ) という地名が残っており、江戸時代から明治時代にかけて開発された江古田新田にあたる。今日訪問する中野区の江古田は 「えごた」 と読まれ、使いわけがなされている。江古田という地名の由来については、現在の江古田の森公園の高台には 「江古寺」 があった事から江古田と呼ばれる様になったという説 (最有力説) がある。この他に江古田村内にはエゴノキ (エゴギ) がたくさん生えていたから、荏胡麻 (エゴマ) の田が多くあったとか、古くから田があったから古田とよばれたとかなど諸説ある。

江古田村がいつ頃村立てされたかは不明だが、江古田と記された古文書から、江戸時代初期には村として設立していた事は確認されているが、それ以前の江古田原合戦の顛末を記した道灌状には江古田原という地名が明記されている事から、この年代には集落が存在していたと考えられている。

江戸時代の江古田村について、新編武蔵風土記稿 (文化・文政期 1804 ~ 1829年) には、丸山 (西側)、本村 (東側)、大原(北側)、本田屋敷 (中央部)、柏崎屋敷 (南側)、小川屋敷 (北側)、大籠原(西側)、小籠原 (大籠原に隣接) の小名で構成されていたと記載されている。ただ、同時代の各種文献には、徳田、天神山、和田山、寺山、西原、北ノ原(北原) 様々な小名名もありはっきりとした小名構成は明確でない。江戸初期から中期においては、江古田村は広範囲で、孫右衛門組(深野家) と庄左衛門組 (白井家、堀野家) の二名が相名主として組ごとに年貢の徴収や戸籍の管理、幕府からの通達の伝達などを分担して江古田村を治めていた。

江戸中期以降は村内の人口増加や新田開発にともない、孫右衛門組 [東組] (深野家:東本村、旧江古田1丁目)、庄左衛門組 [原組] (堀野家:西本村、旧江古田2丁目)、太左衛門組 [江古田原組](堀野家:新田・境界エリア)、丸山組(山崎家:丸山周辺)、片山組 (片山周辺) の五つの組に細分化されている。

深野家は、鎌倉時代からこの地に住んでいたといわれ、代々、孫右衛門を名乗った。江古田新田が開拓されてからはこの地域も治めていたが、1700年 (元禄13年) 頃から、江古田新田と村境の地域は白井家の一族の「太左衛門組」を独立した組として分離している。江古田新田は江古田村の村民により開拓された地域だったが、上板橋村とその入会地や水利をめぐって紛争が続いていたが、江戸幕府の裁定により、上板橋村の小名江古田 (江古田新田) とされた。その後も、実際に耕作しているのは江古田村の農民 (出作) で、太左衛門 (堀野家) は江古田新田の年貢や戸籍の管理権は上板橋村に譲りらず、江戸中期から幕末にかけて何度も上板橋村から幕府の評定所へ訴えが行われていた。

江戸後期には孫右衛門組 (深野家)、太左衛門組 (堀野家)、丸山組 (後に喜兵衛組/山崎家) の3つの組に再編成されている。

江古田村は明治維新後も存続したが、江古田村の所属が目まぐるしく変わる。1868年 (慶応4年) に武蔵知県事の設置とともにその管轄になり、1869年 (明治2年) に品川県へ移管され、1871年 (明治4年)、品川県の廃止とともに東京府の管轄になった。1872年 (明治5年) 1月に神奈川県の管轄になり、同年8月に東京府に復している。当時は江古田村は多摩郡に属していたが、多摩郡 は1878年 (明治11年) に東西南北に四分割され、江古田村は東多摩郡に属した。 1884年 (明治17年) に片山村を併合して範囲を拡げている。

江古田村は、1889年 (明治22年) の町村制施行以降、野方村の大字江古田になり、1932年 (昭和7年) の東京35区制施行(東京市の拡大) により、野方町大字江古田は中野区の江古田一丁目から四丁目までの四つの町丁に分けられた。

下の図は江古田村内の行政区の変遷をまとめたが、年表のようなものは見つからず、複数の資料の断片的な情報を求めた。資料間では異なった記述等矛盾もあり、下の図が正しいのかは確信はない。

旧江古田村 訪問地

(石仏番号は東京都中野区内の石仏 中野区史料館資料叢書 第4号1968 中野区教育委員会による)



小字 籠原 (こごはら、かごはら)

旧江古田村の西地域は籠原と呼ばれる原野だった。籠原の地名は、地形的に江古田村の中心から外れた目立たない場所 (カゲ=影) を指す古代の東国方言に由来するという説がある。江戸時代初期から中期迄は、小名 大籠原 (おおこごはら、おおらかごはら) と呼ばれていた。当時は小名 小籠原 (こごごはら、こらかごはら)、丸山、徳殿も含め、堀野家庄左衛門組が管理していたが、この地に定住していた有力商家の山崎家が質屋や醤油醸造で経済力をつけ耕地や山林を所有するに至り、深野家・堀野家の管轄地から一部の小字を譲り受け、天明・寛政年間 (1781 ~ 1801年) 頃に三代山崎喜兵衛が丸山組 (喜兵衛組) として独立して名主となり、明治時代のまで、山崎家は名主を継承し、小字の籠原、籠原窪、丸山、徳殿を管理していた。

1889年 (明治22年) の町村制施行により江古田村は野方村大字江古田となり、江戸時代の小名 小籠原は小字 籠原窪、その東側の小名 大籠原が小字 籠原となっている。

1932年 (昭和7年)に中野区が誕生した際に小字の籠原窪、丸山、徳殿と共に江古田四丁目となっている。1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 籠原は丸山一丁目と江古田四丁目となっている。この時に旧籠原窪窪は丸山二丁目と丸山一丁目となっている。旧籠原と籠原窪が丸山町となった経緯は、当時の常用漢字の中に籠という文字がなく、1952年 (昭和27年)に開校した丸山小学校 (現在の緑野小学校) があったので、籠原から丸山に変えたという。


籠原観音

旧小字 籠原内の緑野小学校の前に地蔵堂が置かれ、籠原観音と呼ばれている。堂内には四つの石塔が安置されている。点在していた石仏を1963年(昭和38年) に区立第十一中学校 (現緑野中学校) 建設の際に、地元有志によりここに納められたもの。向かって左から見ていくと、



小字 丸山 (まるやま)

小字籠原の南から東に伸びる地域が小字 丸山になる。先に述べた様に、江戸後期になると、江古田村は孫右衛門組 (深野家)、太左衛門組(堀野家)、丸山組 (後に喜兵衛組/山崎家) の3つの組にわけられるようになり、丸山組の管轄となっている。小字 丸山内には丸山塚 (後述) などの丸い丘の塚が存在しいていたことが小字名の由来とされている。1889年 (明治22年) の町村制施行により、丸山は江古田村は野方村大字江古田小字丸山となっている。

1932年 (昭和7年)に中野区が誕生した際に小字の籠原窪、籠原、徳殿と共に江古田四丁目となっている。1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 丸山は江古田四丁目、沼袋二丁目、沼袋四丁目となっている。


庚申塔 (27番)

小字 籠原から南に隣接していた小字 丸山に入り、都道440号 (落合井草線) を東に進み、都道の少し南の住宅街の中に堂宇が置かれている。堂内には1713年 (正徳3年) に江古田村講中24人により造立された庚申塔が祀られている。唐破風笠付角柱の正面には邪鬼を押し潰し座った姿の合掌六臂の青面金剛像、頭上には日月、邪鬼の下には三猿が浮き彫りされれている。庚申塔の両側面にはそれぞれ、「右 中村道」、「左 さぎのみや」と刻まれ道標もかねており、元々は少し西の都道440号線沿いにあったが、戦前に道路拡張工事で、現在地に移設されている。


地蔵尊菩薩 (延命身代地蔵尊 36番)、馬頭観音

庚申塔 (27番) から住宅内の道を東に進むと南北に走る道路に出る。商店街になっており、沼袋交差点へ北に進むと商店街ビルの一階奥まった所に堂宇があり、その中に丸彫りの地蔵菩薩立像が安置され、身代わり地蔵と呼ばれれている。太田道灌と石神井城の豊島氏が江古田原沼袋の合戦 (1477年 文明9年) の戦死者と思われる大量の人骨が見つかりその鎮魂のために建てられたと伝えられている。「東京都中野区内の石仏」 には明治時代の初めにこの地で殺人事件があり、地域住民により犠牲者の慰霊の為に1937年 (昭和12年) に建てられたとある。推測するに、この地で起きた不幸な出来事と江古田原沼袋の合戦の戦死者に関わると思い造られたのかも知れない。

この地域では春と秋の年に2回、「身代延命地蔵尊まつり」が開催されている。

堂宇の傍には馬頭尊と刻まれた馬頭観音と慈郎稲荷大明神と刻まれた石塔が置かれている。この二つの石塔についての情報は見つからなかった。


丸山塚公園、豊島二百柱社

身代地蔵の道を挟んだ東側には丸山塚公園が整備されている。公園名が丸山塚とあるのが気になって調べると、太田道灌と豊島泰経が戦った江古田ヶ原・沼袋の戦の犠牲者を祀る公園の片隅に太田道灌と豊島泰経が戦った江古田ヶ原・沼袋の戦 (1477年 文明9年) の犠牲者を祀った塚と伝わっているそうだ。

この地域の宅地開発がされた際に豊島塚と呼ばれていたものが多くあったが開発工事で消滅してしまった。1974年 (昭和49年) に消滅した豊島塚を供養するためにこの公園の南隅に豊島二百柱社を建立している。


山﨑記念中野区立歴史民俗資料館 (山崎家屋敷跡) (未訪問)

小字 丸山内を東西に走る都道440号 (新青梅街道) 沿いに山﨑記念中野区立歴史民俗資料館が建てられている。時間が無く、まだ見学していないのだが、いずれ訪れる予定。この資料館は江戸時代後期から、この周辺地域を管理していた代々名主を勤めた山崎家の屋敷跡になる。江戸時代、小名 丸山の北に隣接していた小名 寺山内には御林 (おはやし) には徳川将軍家の御鷹場 (おたかば) があり、鶴、鴨、キジ、野ウサギなどを育てていた。将軍がこの御鷹場で鷹狩を行う際には、鳥見 (とりみ) と呼ばれる幕府の役人が鳥の生息状況の調査など、現地へ下見に訪れ、この山崎家屋敷の茶室や書院が、鳥見の立ち寄り所や接待の場として使われていた。



小字 寺山 (てらやま)

小字 丸山の北は小字 寺山で、かつて、鎌倉時代から室町時代にかけて、現在の江古田の森公園一帯に江古田寺 (江古寺) が存在していたが、室町時代の1477年の江古田原合戦の兵火により焼失したと伝えられている。この場所では中世の寺院跡とみられる掘立柱建物跡や宋からの白磁四耳壺や板碑などが大量に出土している。

この事から、寺院のあった周辺の高台を 「寺山」と呼ぶようになり、小字名の由来という。また、江戸時代には、現在の江古田の森公園は幕府直轄の御林 (おはやし) で、徳川将軍家の御鷹場だった。

江戸時代初期から明治時代にかけては堀野家庄左衛門組が管理していた。1889年 (明治22年) の町村制施行により、江古田村が野方村になった際に大字江古田小字寺山となっている。

1932年 (昭和7年)に中野区が誕生した際に小字の本多と共に江古田三丁目となっている。1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 寺山は江古田二丁目、江古田二丁目三となっている。


稲荷塚 (江古田二丁目公園)

字 寺山内に江古田二丁目公園が整備されている。この公園が整備される前には豊島塚のひとつとされる小高い藪地があり、馬捨場だった。地元では稲荷塚とか、狐が住んでいたので狐塚とも呼ばれていた。現在では整地され、塚は消滅している。


江古田氷川神社

江古田二丁目公園から少し北に進むと江古田村の鎮守だった江古田氷川神社がある。1460年 (寛正元年) にこの地域の村人が素盞鳴尊の武徳を慕い、小祠を建てたのが創祀と伝えられている。当時は牛御嶽社と称していた。

1477年 (文明9年) に太田道灌が石神井・練馬城の豊島氏を攻めた際には、豊島堪解由左衛門との戦いでは、この辺りが戦場となった。この時に道灌はこの御嶽社に戦勝を祈願したと伝えられている。慶安年間 (1648 ~ 1652年) に御嶽社を現在の江古田一丁目会会館の場所に移した際に、跡地に牛頭天王を勧請し牛頭天王社を建立している。

1696年 (元禄9年) に牛頭天王社を氷川社と改め、江戸時代には氷川明神と呼ばれていた。

1913年 (大正2年) に明治政府による神社合祀令により、江古田村の各字に鎮座されていた御嶽神社 (金峰社、現在は江古田一丁目会会館)、第六天社 (蓮華寺のすぐ北側)、北野神社、大神宮社の4社が氷川神社に合祀されている。


鳥居

道路から氷川神社へ入ると駐車場となっており、階段を登った所に1932年 (昭和7年) の境内整備の際に奉納された鳥居が置かれている。


燈籠、狛犬

鳥居をくぐると境内に入る。境内の木々は既に色付いている。

鳥居から社殿へは一直線に石畳が敷かれており、その両側には、1988年 (昭和63年) に奉納された朱塗りの燈籠、続いて1932年 (昭和7年) の境内整備の折に奉納された石燈籠が置かれている。残念ながら、宝珠、笠、火袋は欠損している。その先にも石燈籠があるのだが、これも欠損しており台座だけが残っている。

その先には二対の狛犬が置かれている。手前の狛犬は1932年 (昭和7年) の境内整備の折に奉納されたもので、社殿前の狛犬は年銘はないのだが江戸後期のものとされている。


社殿

石畳の先には社殿が建てられている。1846年 (弘化三年) に改築された社殿は、1932年 (昭和7年) に境内が整備され一新されている。この時に改築された社殿が現在のもの。


社務所

拝殿の東側には社務所が建っている。


神楽殿

現在の神楽殿は、元々は1847年 (弘化4年) に拝殿として建立され、1932 年 (昭和7年) まで使われていたが、新しい社殿造営で、元の場所から少し右手の現在地に移し神楽殿として使われている。かやぶき 式を色濃く残している。1981年 (昭和56年)に近所の火災により罹災し、翌1981年 (昭和57年) に茅葺きから銅板に葺き替えられている。

この神楽殿の前には舞台が設けられ、毎年の例祭で舞われる獅子舞が奉納されている。

江古田の獅子舞は東日本に広く分布する一人立ちの風流系の獅子舞で、古くは田楽舞の一つで、鹿や猪の面を冠って踊ったシカ踊といわれていた。その後、獅子に変わり、悪霊祓いに発展し、雄獅子二頭と雌獅子一頭に花笠を戴いたささら摺りが付く現在の形となり、関東地方以北で多く見られる。

この様な形式の獅子舞は鎌倉時代を起源として、三頭の獅子 (大獅子、女獅子、中獅子)、ささら摺りの花笠、東西南北を現す四神、青竜 (東)・白虎(西)・朱雀(南)・玄武(北)を 四方に配し、悪霊退散、災難回避、村人の幸福を祈願して奉納されている事から、祈祷獅子ともいわれる。江古田獅子舞は慶安年間 (1648 ~ 1652年) にこの場所にあった江古田村鎮守だった御嶽社は移動した跡地に牛頭天王を勧請した頃の1649年 (慶安2年) に修験僧の宥円から獅子舞を伝授されたと伝えられる。

江戸時代に描かれた「江古田獅子舞巡行絵巻」の形が現在でも大祭にはお練り行列が維持されている。1913年 (大正2年) に江古田村の各字にあった御嶽神社、第六天社、北野神社、大神宮社の四社を氷川神社に合祀した際、御嶽神社と東福寺に伝わった獅子舞が、この年から氷川神社で舞われるようになった。


手水舎

石畳参道の石燈籠の西側には手水舎が置かれている。


境内末社 (稲荷神社、三峰神社、熊野神社)

手水舎の奥の林の中には築山があり、そこに境内末社が置かれている。築山に入った所には稲荷神社と三峰神社 (写真右上) があり、そこから道になっており、熊野神社 (右下) があり、その横には五拾五貫の力石が置かれている。そして北野神社 (左下) と続いている。

出口には1916年 (大正5年) に寄進された120枚の敷石の供養塔も置かれている。


鎮守霊神社

階段付近東側には1908年 (明治41年) に建てられた鎮守霊神社が置かれている。江古田出身者で日清(1894 ~ 95年) ・ 日露戦争 (1904 ~ 05年) での戦没者を慰霊している。その左脇に日露戦役記念碑 (1908年 明治41年 写真左下)、右奥には征清従軍兵士の名が刻まれた戦捷紀念碑 (1897年 明治30年 写真右下) が置かれている。


無名社 (不明社)

江古田氷川神社の西にはコインパーキング場となっている。この場所も氷川神社の所有地で、入口を入った所に石造りの祠がある。これも氷川神社の境内末社で1863年 (文久3年) 造立と古く、祭神や名称は伝わっておらず無名社 (不明社) として扱われている。


神輿庫

駐車場奥に幾つかの神輿庫が並んでいる。氷川神社の氏子の五町会 (江古田一丁目、江古田二丁目、江原町、丸山、旭) の神輿が保管されている。

毎年10月第1土曜日・日曜日の例大祭のお練り行列で太鼓山車と共に練り出されている。


江古田の森公園、江古田遺跡、伝江古田城 (本田城) 跡

小字 寺山の北は三方を江古田川に囲まれた寺山台地と呼ばれる標高約30mの舌状台地で、その台地上に江古田の森公園が整備されている。この場所では縄文土器が大量に採取され、縄文時代中期の集落跡も発見され、小字 寺山と小字 西の原にまたがって江古田遺跡 (本田山遺跡、寺山遺跡、北江古田遺跡、寺山北部遺跡、寺山南部遺跡) と指定されている。また、中世の寺院の江古寺や居館 (小川屋敷: 鎌倉初期に敗亡した幕府重臣の和田義盛の子孫が当地に住み着いたと伝わる) の遺構なども検出されている。江古寺は江古田の地名の由来とされ、江古田村は江古寺の領地だった。豊島氏と太田道灌と江古田原合戦では、豊島一族は江古寺附近に陣をとって戦いに敗れ、江古寺はこの合戦の際に焼失したと伝わる。また、この寺山台地には江古田城 (本田城、本多山城) があったという伝承もあるが確認されておらず幻の江古田城とも呼ばれている。江戸時代にはこの地は「寺山」や「御林」と呼ばれる徳川将軍の鷹狩り場とされ、明治時代には茶や桑が生産されていた。1919年 (大正8年) に主に結核患者の養生施設として東京市療養所が開設され、1967年 (昭和42年) に10階建の病院に建て替えられ国立中野療養所となっている。

昭和42年 1993年 (平成5年) に新宿区の国立国際医療センターに統合・廃止され、その跡地の一部が江古田の森公園として整備された。



小字 本多 (ほんだ)

小字 寺山の東が小字 本多になる。江戸時代の江古田村の本村の西側地域だった。この地の寺山台地に存在していたと伝わっている江古田城は本田城とも呼ばれており、それが小字 本多の名の由来という。江戸時代初期から明治時代にかけては堀野家庄左衛門組が管理していた。1889年 (明治22年) の町村制施行により、江古田村が野方村になった際に大字江古田小字本多となっている。

1932年 (昭和7年)に中野区が誕生した際に小字の寺山と共に江古田三丁目となっている。1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 本多は江古田二丁目、江古田二丁目となっている。


お経塚、地蔵菩薩 (29番)、馬頭観音 (29番)

小字の丸山、寺山、本多が交わる所にお経塚と呼ばれる所がある。江戸時代初期には古塚と記されている。大正時代までは塚が残っており、塚の上には、1738年 (元文三年) 江古田村念仏講中により造立された舟型石塔に浮き彫りされた光背の地蔵菩薩立像と1776 (安永五年) 造立の馬頭観音が置かれていた。

その後、大正時代末期の道路整備工事で塚は削られ消滅してしまった。その際には人骨と経筒らしいものが出土している。ここも豊島塚の一つとされている。また、東福寺が火災で焼けたときの経文や過去帳などの 灰を埋めて塚を造ったとも伝わっている。江古田原合戦の際に焼失した江古寺の経文を埋め、江古田原合戦の戦死者を葬った塚との説もある。

現在では小さな広場に堂宇が建てられ地蔵尊と馬頭観音が安置されている。


金峯山世尊院東福寺 (真言宗豊山派)

氷川神社の東側には真言宗豊山派の金峯山世尊院東福寺がある。御府内八十八ケ所の二番札所及び豊島八十八ヶ所霊場二番札所となっている。

東福寺は創建年代は不詳だが、平安時代末期に江古田本村に鎮座していた御嶽神社氏子の堀野二郎左衛門 (開基となる) が武州御獄神社の社僧源教から教化を受け御嶽山の神社の南麓に堂舎を建て、弘法大師の作と伝えられる一本彫の立身不動明王を本尊として安置し、源教を開山とし創建され、金峰山世尊院東福寺の寺号を贈られたと伝わっている。後にこの地に移転している。


山門

道路に面した山門から寺院に入る。

山門を入ると左側に小さな築山が造られている。


六地蔵 (27番)、庚申塔 (26番)、地蔵菩薩立像

右側には六地蔵が置かれ、その周りにも石仏が並べられている。


巡拝成満記念碑、永代供養墓

六地蔵のとなりには、四国八十八ヶ所霊場 西国三十三所霊場坂東三十三観音霊場 秩父三十四観音霊場の全てを参拝しその達成を記念した満願の碑を囲んで、祖先がこの東福寺の開基でもあった堀野氏の土地寄進碑、敷石供養塔、弘法大師碑等が並んでいる。またその隣には永代供養墓 (写真右) も置かれている。


馬頭観音

六地蔵の奥、墓地への階段を登った所に多くの石仏に囲まれて、大きな石仏が置かれている。唐破風笠付の角柱型石塔で、1742年 (寛保2年) に造立され、馬頭観音としてはもっとも古い時代のものかもしれない。石塔正面には三面六臂の馬頭観音が浮き彫りされている。側面には 「武刕多麻郡中荒井村」 と書かれているので、現在の練馬区豊玉から移設されている。


大蔵院不動尊

参道を進むと左手に築山が施されて、そこに大蔵院不動尊がある。不動尊の脇の石板に大蔵院不動尊の由緒が刻まれている。この近くには大蔵院と呼ばれる寺院が明治時代初期まで存在しており、大蔵院と東福寺は共に修験道場でもあり、緊密な関係だった。元禄・宝永のころに大越家法印という僧が修験の道を広めるため、津島山の丘 (現在の江古田2-10付近) に堂宇を建て、不動明王を安置し布教に努めていた。この不動明王は目や耳の病気に霊験あらたかで、多くの信仰を集めていたという。明治時代に入ると神仏分離令により廃仏毀釈が起こり、大蔵院も廃寺となった。地元の熱心な信徒だった矢島家が大蔵院修験道場跡地の不動堂を管理していたが、1926年 (昭和元年) に、矢島家の敷地内に堂宇を建てて不動尊を移している。1945年 (昭和20年) の戦災で再び不動堂は焼失、不動明王像も損壊してしまった。矢島家はこれを憂い、1968年 (昭和43年) に東福寺大改修時に、新たに不動明王像を作り、この地に奉安している。


興教大師像、徳川将軍御膳所跡の碑

参道を本堂に向かう途中左側には平安時代後期の真言宗中興の祖で新義真言宗始祖の興教大師像が安置されている。東福寺は新義真言宗の一派の真言宗豊山派になる。豊山派は新義真言宗の本山の根来寺が織田信長に焼き討ちをされた際に逃れた地で専誉が起こした宗派。

興教大師像の側には徳川将軍御膳所跡の碑も置かれている。

江戸時代には三代将軍家光 (1623 ~ 51年) が小名 寺山にあった御鷹場 (おたかば、現在は江古田の森公園となっている) での鷹狩の際に、この東福寺を休憩場所として使われ、それ以降も将軍の御膳所となっていた。承応年間 (1652 ~ 55年) に改築した本堂内陣の左側の客殿には御膳所として 「お成りの間」 と呼ばれる部屋を設けていた。八代将軍吉宗の時代 (1716 ~ 45年) には将軍の御膳所に指定された。 1965年 (昭和40年) にお成りの間は取り壊され、徳川将軍御膳所跡の碑が建てられている。


大師堂

参道を進むと階段になり、この階段を登った先に本堂が置かれている。階段の途中の左側に大師堂が置かれている。

この大師堂は、明治時代の神仏分離令により廃寺となった新義真言宗の雨宝山二尊院 (東京都新宿区余丁町 8-5 の抜弁天厳島神社境内及び周辺にあった) の大師堂を移築したもの。


本堂

階段を登った所に本堂が建立されている。天正の頃に堂舎が焼失したが信者が協力して寛永年間に寺地を本田に移し再建し、承応4年に八間半に七間の本堂が完成した。その記念樹の銀杏が中野区の保護樹第一号として現存している。

本堂に隣接して庫裡が建てられている。

本堂の前、大師堂との間には弘法大師が全国を回っている姿を表した修業大師像と五輪塔も見られる。


鐘楼堂

本堂脇から墓地に通じており、その中に鐘楼堂があり、吊るされた鐘楼には、江古田獅子舞の四神の図が刻まれている。

江古田獅子舞は1649年 (慶安2年) に御嶽神社の修験僧の宥圓から伝授されたもので、笛や太鼓、ささらの音色に合わせて、大獅子・中獅子・女獅子の三匹の獅子が舞い、青龍・白虎・朱雀・玄武の四神を従えて練り行列を行う。江戸時代から大正時代の頃までは境内で演舞されていたそうだが、現在では江古田氷川神社例祭で奉納されている。


墓地

鐘楼堂のある墓地には、江古田村の三つの有力旧家で開基の堀野家の墓所 (写真中) が幾つもあった。江古田村の目についたのは石塔、石仏を2~3段に積み上げたものがあった。寄せ墓と呼ばれる無縁塔 (写真下) で、多くの墓地では並べられているが、この様にタワー型に積み上げられたものは関東で多く見られるそうだ。



小字 東本村 (ひがしほんむら)

小字 本多に東側に隣接しているのが小字 東本村だった。小字 東本村は江戸時代には小名 本村の北地域で、南地域の小字 東和田も含めて孫右衛門組 (東組) が管理しており江古田村の中心地だった。1889年 (明治22年) の町村制施行により、江古田村が野方村になった際に、旧小名本村は小字の東本村と東和田に分割されている。1932年 (昭和7年)に中野区が誕生した際に小字の東本村と東和田は共に江古田一丁目となっている。1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 東本村は江古田一丁目、江原一丁目となっている。



江古田一丁目会会館 (御嶽社跡) (未訪問)

旧小字 東本村には江古田村の鎮守の御嶽社 (金峰社) が存在していた。現在の現在の江古田一丁目会会館の場所に鎮座していたという。それ以前には現在の氷川神社の場所にあったが、慶安年間 (1648 ~ 1652年) に遷し、旧社の跡地には牛頭天王 (後の氷川神社) を勧請したともいう。




小字 東和田 (ひがしわだ)

小字 東本村に南側に隣接しているのが小字 東和田だった。小字 東和田は江戸時代には東本村と共に孫右衛門組 (東組) が管理していた小名 本村で、その北地域にあたる。1889年 (明治22年) の町村制施行により、江古田村が野方村になった際に、旧小名本村は小字の東本村と東和田に分割されている。1932年 (昭和7年)に中野区が誕生した際に小字の東本村と東和田は共に江古田一丁目となっている。1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 東和田は江古田一丁目、松ヶ丘一丁目、松ヶ丘一丁目となっている。この地に和田山があった事が小字名となっている。和田山は現在の哲学道公園となっている。鎌倉時代に源頼朝の家臣である和田義盛が、この地に陣屋を構えたという伝承から和田山と呼ばれるようになったという。江戸時代には越後高田藩榊原家の飛び地で、江古田村名主の深野孫右衛門が代々管理していた。


垢離取不動尊

江古田公園を取り囲む様に流れている妙正寺川へは江古田古戦場跡の所で江古田川が流れ込んでいる。

ここから江古田川沿いを北に進むと不動橋が架かっている。かつてここに不動明王立像があったことから不動橋と命名された。江古田川はかつて中新井川と呼ばれ、中新井村池を水源として妙正寺川 (落合川) に流れこんでいる。中新井川 (江古田川) には弁天分水や江古田分水など数か所の分水口が設けられ、周辺の田に水を引き込み灌漑用水として使われていた。

かつては、不動橋の大堰の関下に垢離取不動尊が祀られており、村の人が富士や大山へ代参に行くときには、ここで水垢離をして、不動明王に道中の安全を祈願していた。

また、毎年5月の下旬には、村をあげた万垢離 (まんごり) という行事も行われていた。旧江古田村には、原、東、片山、 丸山、籠原の五つの組があり、各組が1ヶ月交替で行事を支える月番があった。五色の色紙で江古田五組の家の数だけの幣束を作り、藁束に刺した「ぼんでん」を先頭に、長さ 4m余りの木太刀を担いで川に入り、掛け念仏の声勇ましく、氷川神社に至り、村内安全五穀豊作を祈願していた。夕刻には月番は幣束を各家に配り、家々でそれを門口に挿して、一年の魔除けとした。その不動尊は、河川改修などで移設していたのが、戦時中行方不明となり、区画整理後に大橋の南側にできた橋の東側に線刻の不動像が新しく建てられている。


哲学堂公園 (2025年11月20日 訪問)

小字 東和田の南のかつての和田山にある哲学堂公園はかなり広く、多くの建造物があり、今日は時間なく、明日見学する事にする。


星光山蓮華寺 (日蓮宗)

小字 東和田の北側、都道420号線の北に日蓮宗の星光山蓮華寺が建っている。南北朝時代の1375年 (天授元年) に開山となる池上本門寺妙本寺両山4世の日山上人が橘樹郡星川村 (現在の神奈川県横浜市保土ケ谷区星川付近) に本尊を日朗の作とされる日蓮座像を祀り、池上本門寺の末寺として開創されたと伝わっている。1740年 (元文5年) に江古田村名主の深野氏が中興開基として土地を提供し、中興開山には日匡上人がなり、現在地へ移転している。


山門、参道

階段を登った所に山門がある。伝統的な山門ではなく、石柱にデザインが施された鉄の格子戸になっている。

山門を入ると、長い参道が伸びている。参道沿いの左側は仕切りの塀はなく墓地になっている。

鐘楼堂

参道の右側には鐘楼堂がある。この鐘楼は明治初期に近隣15ヶ村の村民からの時の鎚の願いから、2時間毎に鐘を打ち村人に知らせたという。


庚申塔 (59番)

鐘楼の傍には、法界萬霊供養塔 (写真左上)、石燈籠、地蔵菩薩立像二基、板碑庚申塔二基が置かれている。


井上円了墓

参道を挟んで、東洋大学の創立者で哲学堂を作った井上円了の墓がある。井上円了は1858年(安政5年) に新潟県の寺に生まれ、哲学者・教育者として活動を行った。既成仏教の革新、キリスト教批判、迷信打破などの運動を展開した。哲学館 (後の東洋大学) と哲学堂を創立し、円了が提唱する 「護国愛理」 に基づき学校教育と社会教育に尽力している。1919年 (大正8年) に、中国の大連において講演中に倒れて61才で逝去している。当時の蓮華寺の住職と親交があったことにより、翌年の1920年 (大正9年) に、この地に墓を造り葬られている。

円了の墓はおもしろい形になっている。生前、円了自らデザインをしたそうだ。「井」の「上」に円了を象徴する「円」の墓碑が置かれている。

円了の墓所の側には歌碑が三つ置かれている。


庚申塔

鐘楼の本堂側にも、墓所や石塔が置かれており、その中に庚申塔 (写真右上) があった。1734年 (享保19年) 造立の舟型板碑の庚申塔で、板碑上部には日月があしらわれ、中央には 「南無妙法蓮華経 南無帝釈天王」 と刻まれている。


本堂

参道の先に本堂が建てられている。本堂には日朗上人作とされる本尊の日蓮像が安置されている他に、350余年前のものとされる加藤清正像があり、その腹中にもう一体の尊像を蔵し「お腹ごもり清正公」として知られている。また、全国の女性約7万人から提供された黒髪を1人3本づつ植え付けた生髪生髪鬼子母神はが安置されている。


懺悔堂

本堂の前、向かって左側には、懺悔堂が建っている。この懺悔堂では、日蓮宗の教えに基づき、日々の行いを省みて自らの罪障を懺悔し、心身を浄化して一心に祈願を行う場所との事。


三穂稲荷大明神、諏訪大明神

懺悔堂の横には三穂稲荷大明神を祀った祠が置かれている。

その隣にも諏訪大明神を祀る祠がある。


子育地蔵菩薩 (71番)

諏訪大明神の場所から墓地に入ると無縁塔など石仏が集められている所がある。その中に幼児を抱いた光輪の丸彫り地蔵菩薩坐像 (71番 写真右下) が置かれており、子育地蔵と呼ばれている。


野方配水塔

旧江古田村を散策していると、住宅街の中にレトロな建物 (写真左上) が見えていた。気になってそこにいって見た。これは1930年 (昭和5年) に建てられた荒玉水道の上水道の給水タンクで1966年 (昭和41年) まで使われていた。その後、解体される事になっていたが、1977年 (昭和52年)に給水タンクは保存される事になり、跡地はみずのとう公園が整備され、た。給水タンクは2010年 (平成22年) に国の登録有形文化財に登録され、現在は災害時給水塔となっている。



小字 西の原 (にしのはら)

江古田村内の北側は江戸時代には小名 大原と呼ばれ、その中には西の原、北の原、上の原、下の原があった。

江戸時代初期に開拓された小名 大原は深野家分家の堀野家の庄左衛門組が管理していたが、江戸時代中期に堀野家の太左衛門組の管理に移っている。1889年 (明治22年) の町村制施行により、江古田村が野方村になった際に、旧小名大原は上の原、西の原、下の原、東の原の四つの小字に分割されている。1932年 (昭和7年)に中野区が誕生した際に旧小名 大原は江古田二丁目となっている。その後、1965年 (昭和40年) の町名改正で、江古田二丁目は江原町となり、旧小字 西の原は江原二丁目の一部となっている。


北江古田遺跡

江古田の森公園内の北東地区では妙正寺川沿いに縄文時代早期、前期、中期、後期にわたる北江古田遺跡が見つかっている。

約4500年前の縄文時代中期に属する貯蔵穴などに使われた土坑から、カゴやクルミなどの遺物が出土している。祭祀に使われたと思われる一群の土器も出土している。投網の先につける土器の破片でつくったオモリ (土錘) が多量に発見され、この時代の人々が植物や動物のほかに妙正寺川あたりの魚をとって暮らしていたことが窺われる。



小字 北の原 (きたのはら)

江戸時代の小名 大原が明治時代に四つの小字に区画された一つが小字北原で、小字 西原の東に隣接し、江古田村の北端に位置している。1889年 (明治22年) の町村制施行により、江古田村が野方村になった際に、旧小名大原は上の原、西の原、下の原、東の原の四つの小字に分割されている。1932年 (昭和7年)に中野区が誕生した際に旧小名 大原は江古田二丁目となり、その後、1965年 (昭和40年) の町名改正で、江古田二丁目は江原町となり、旧小字 北の原は江原一丁目、江原二丁目、江原三丁目に分割されている。


江原屋敷森緑地

小字 北の原の中には江原屋敷森緑地が整備されている。江戸時代の旧家の花咲家の庭の一部を1992年 (平成4年) に中野区が買い取り、当時の屋敷林を残し、公園を整備して1994年 (平成6年) に開設されている。


地蔵菩薩

江原屋敷森緑地の北側の住宅地マンションの角に丸彫りの地蔵菩薩立像が置かれている。寛政年間 (1789 ~ 1801年) にこの地で疫病がはやった際に、疫病平癒を祈願して造立されたという。



小字 下の原 (したのはら)

小字 北の原の南が江戸時代の小名 大原の南地区だった小字 下の原になる。1889年 (明治22年) の町村制施行により、江古田村が野方村になった際に、旧小名大原は上の原、西の原、下の原、東の原の四つの小字に分割されている。1932年 (昭和7年)に中野区が誕生した際に旧小名 大原は江古田二丁目となり、その後、1965年 (昭和40年) の町名改正で、江古田二丁目は江原町となり、旧小字 下の原は江原一丁目、江原二丁目に分割され、それぞれの一部となっている。


須賀稲荷神社、稲荷塚

江原屋敷森緑地の南を走る東京都道8号線 (千代田練馬田無線) の南には須賀稲荷神社がある。

古くは、牛頭天王と宇迦之御魂神の2つの祠が、現在の江原屋敷森緑地近くのこぐま公園の場所に鎮座していた。宇迦之御魂命を祀っていた祠は江古田相原の集落の鎮守として、素盞鳴尊と五穀豊穣の神の宇迦之御魂命を祀っていた。1477年 (文明9年) には太田道灌が江古田原の戦いの前にこの神社で戦勝祈願したと伝わっている。

もう一つの祠には悪疫を防ぐ神の牛頭天王 (素戔嗚尊) を祀る第六天社で、地元では天王様と呼ばれ、東福寺持ちだった。

昭和40年 (1965年) 代に入り、道路拡張工事等で、祭祀行事に支障があり、この二つの祠を、豊島塚の一つとされる塚跡 (稲荷塚) だった現在地に移転した上で合祀し、1967年 (昭和42年) に須賀稲荷神社となっている。1967年 (昭和47年) 社殿、公民館併設の社務所 (写真下)、神楽殿 (写真右上) が新築されている。現在では須賀稲荷神社氏子会が管理している。


こぐま公園

東京都道8号線 (千代田練馬田無線) の北沿いに、こぐま公園が整備されている。この公園はかつての現在の須賀稲荷神社に合祀された二つの祠があった場所で、その跡地に整備されたもの。

公園は2021年に改修されており、それ以前の公園の遊具は現在のものより大きかった。


小字 上の原 (うえのはら)

小字 北の原と下の原の東が江戸時代の小名 大原の東地区だった小字 上の原になる。1889年 (明治22年) の町村制施行により、江古田村が野方村になった際に、旧小名大原は上の原、西の原、下の原、東の原の四つの小字に分割されている。1932年 (昭和7年)に中野区が誕生した際に旧小名 大原は江古田二丁目となり、その後、1965年 (昭和40年) の町名改正で、江古田二丁目は江原町となり、旧小字 上の原は江原一丁目と江原三丁目に分割され、それぞれの一部となっている。


江原観音堂(珠光山地蔵院)、江古田不動院(不動尊)

こぐま公園の東に江原観音堂がある。江原観音堂は東福寺の別院で、正式には珠光山地蔵院といい、創建年は不詳。

1878年 (明治1 1年)に観音堂の敷地に江古田不動院(不動堂)の小堂が建立され、その後、不動堂は1956年 (昭和31年) に再建、 2007年 (平成19年) に照嶽講及び観音講の協力の元、観音堂、不動堂共に改修されている。現在では葬儀会場等としても利用されている。

不動堂の裏手には不動明王を中心とした石仏が幾つも並べられている。


庚申塔 (24番、25番)

不動堂の前には6つの石仏が並んでおり、その中に中野区文化財に指定されている二つの庚申塔がある。


江古田整地記念碑

石仏群の隣には、1943年 (昭和18年) に江古田地域の整地事業が完了した事を記念して建てられた石碑が置かれている。江古田公園の江古田古戦場跡近くにも整地碑が建てられており、事業の背景などは後述の整地碑に記載している。

江古田整地記念碑の隣には6つの板碑も並べられている。詳細は見つからず。


江原公園

江原観音堂の南、東京都道8号線 (千代田練馬田無線) を南に渡ると江原公園がある。この周辺は現在では江原町となっており、この公園は江原町住民の憩いの場となっている。


金井塚

江原公園のすぐ東側の住宅街には豊島塚の一つとされる金井塚があった場所になる。豊島塚の殆どは整地され消滅していて、この金井塚も消え失せて正確な場所はわからない。

昔は円形の塚があり、柘植の木や雑木が茂っていたそうだ。頂部に庚申塔 (25番) が立てられていたことから庚 (かのえ) 塚とも呼ばれていた。この庚申塔は、前述の江原観音堂に移設されている。また、この塚には狐が住み着いていたことから狐塚とも呼ばれていおり、それにまつわる言い伝えが残っている。

江古田原の片町にあった金井塚は、狐塚とも呼ばれた。そこには、古狐が棲んでいて、農家から鶏を捕っていっては畑の麦作の畦に埋めた。昔から、この辺では、狐は鶏を捕って口にたくわえていると歯が焼けるので、一時土をかぶせておき、冷えた時、巣に持ってゆくといわれていた。近所の人たちはそのことをよく知っていて、狐より先に掘り出して、ごちそうにありついたこともしばしばあったという。




小字 北原 (きたはら)

小字 本多の南側は小字 北原になる。北の原と記載している資料もある。江古田村の北の端には別の小字 北の原がある。少し混乱する小字名だが、小字 北原は昔は江古田村ではなく、片山村に属し、その村の北側にあった事で北の原と小字名になっていた。小字名の混乱を避けるためか、こちらは小字 北原とされ、江古田村北端の小字 北の原と区別していた。明治大正時代の片山村は小さく15戸程の村だった。1884年 (明治17年) に片山村全体が江古田村に吸収され、小字名はそのまま残っていた。1932年 (昭和7年)に中野区が誕生した際に旧片山村は、小字の東本村と東和田と共に江古田一丁目となっている。その後、1964年 (昭和39年) の住居表示実施の際に、かつての片山村の台地が松林だったことから、松が丘という町名へと変わり、小字 北原は松が丘一丁目となっている。


松が丘北野神社 (片山北野神社)

小字北原の半ば付近の妙正寺川沿いに菅原道真を祭神として祀る北野神社がある。この辺りは旧片山村時代には小字宮下で、北野神社は片山村の鎮守だった。創建年代は不詳だが、口碑では 1607年 (慶長12年) に京都の北野神社造営の際に片山村の人々が、菅原道真の分霊を勧請し創建したと伝えられている。当時は天神社 (天満宮) と呼ばれていた。1477年 (文明9年) に太田道灌が石神井、練馬両城攻略の際に戦勝を祈願し、北野神社のすぐ北側の江古田原・沼袋合戦 (葛ケ谷古戦場) が起こっている。1872年 (明治5年)に北野神社と改称し現在に至っている。1884年 (明治17年) に片山村全体が江古田村に吸収された際に、江古田氷川神社に所属したが、1933年 (昭和8年) に社殿を改築し、江古田氷川神社から分離し、元々の片山村の氏神とし、神苑も整備している。境内に現在している建造物の殆どはこの時に造られたものになる。

この北野神社では9月最後の土日に例祭が行われている。で、隔年ごとに本祭りと陰祭りが みこし ある。本祭りには町内の神輿が出る。かつて、江戸時代から大正頃までは二月の初午と秋の例大祭には弓で的を射てその年の農作物の豊凶を占う 「御備射 (おびしゃ)」 の神事が行なわれていた。現在でも行われている神社もあるがこの片山北野神社では大正時代末に途絶えている。

また、江古田・片山地域には万垢離と呼ばれた行事があった。水垢離で、毎年5月28日に江古田川の近くにある垢離取不動で行なわれた。梵天という五色の色紙で作られた幣束で飾られた青竹と、氷川神社に奉納されている4mあまりの大太刀を持って江古田川に行き、江古田の各字から当番になった人々が、裸で江古田川に入り、「さんげ、さんげ、六根清浄」 と唱えながら水を掛け合い、身体を清めた。その後、念仏を唱えながら氷川神社に向かい五穀豊穣・家内安全を祈願した。万垢離の後、幣束は村の各戸に配られ一年の魔よけになった。旱魃の時にも雨乞い祈願し江古田川で水垢離をしていた。水垢離 の後、西多摩の御嶽神社に参拝し、霊水を受けて帰り鎮守で祈願祭を行った。関東大震災後、昭和10年代に、この行事も行われなくなった。


一の鳥居、二の鳥居

妙正寺川沿いの道から北野神社への参道があり、階段の上に石造りの一の鳥居が置かれている。笠木が反り増しの明神形でシンプルな中山鳥居形式で造られている。1933年 (昭和8年) に社殿を改築した際に寄進されている。そのすぐ先には木造の二の鳥居でこちらも明神形だが、副柱がある両部鳥居形式になっている。


手水舎

二の鳥居の傍に手水舎が置かれている。これも1933年 (昭和8年) に社殿を改築した際に氏子により奉納されている。手洗鉢には北野神社の特徴の梅鉢紋があしらわれている。


神社改築記念碑、惣元講碑

二の鳥居をくぐり、社殿への参道沿い左手に二つの石碑が置かれている。手前の石碑は1933年 (昭和8年) に社殿の改築完成の記念碑、その奥の自然石は江古田村に組織されていた富士講の惣元講がたてた富士講碑だが、石碑に書かれている内容は達筆で全く読めない。


石燈籠、狛犬

参道に両脇には石燈籠と狛犬が置かれている。どちらも社殿の改築 に奉納されたもので、石燈籠は1932年 (昭和7年) と狛犬は1933年 (昭和8年) に造立されている。


神楽殿

参道の右の境内の端には神楽殿が置かれている。


社殿

参道の先には1933年 (昭和8年) に改築された社殿が建っている。伝統的な造りで、手前から拝殿、幣殿、本殿となっている。


市杵島神社 (弁才天)

社殿右側奥には境内末社の市杵島神社の祠があり、水の神とされる市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと) が祀られている。市杵島姫命は天照大神が須佐之男命の剣を噛んで吹き出した霧から生まれたとされ、仏教の弁才天と習合したことから、通称で弁才天と呼ばれている。


稲荷神社

社殿の右側には境内末社の稲荷神社がある。鳥居をくぐった先に祠が置かれ、穀物食物の神の宇迦之御魂神 (うかのみたまのかみ)を祀っている。


惣元講富士塚跡

稲荷神社への参道左側には1921年 (大正10年)に月三惣元講・江古田講社によって築造され、1960年 (昭和35年) に改修された小さな富士塚跡がある。そこに不動明王が祀られている。中野ではかつては講が盛んで、農家の五穀豊穣を祈願するものとして、富士山、御嶽山、大山、成田山などに詣でていた。村人の代表が代参として参拝に行きお札などを拝領して帰ってくる。この江古田村でも富士講の月三惣元講・江古田講社が組織され、松が丘地域を中心に1973年 (昭和48年) まで活動が続いていた。富士山参詣に出発する前夜には妙正寺川や江古田川で水垢離をとって体 を清め、片山北野神社に参拝して登山の無事を祈願した。無事帰村してきた際には神社に詣で、お札を納めていた。ここには、富士山参詣ができない村民のために富士塚が作られ、塚を登る事で富士山参詣の代わりとしていた。

富士塚の周りには敷石供養塔 (写真左上) や社殿改築前のものと思われる手洗鉢等が無造作に置かれている。手洗鉢 (写真下中) は1902年 (明治35 年)の造立。その傍には、石燈籠の一部なのだろうか、奉納と刻まれた角石 (写真左下) もあり、これには1867年 (慶応3年) の年銘がある。


江古田古戦場跡

松ヶ丘北野神社 (片山北野神社) の北に江古田公園が整備されている。江古田公園内を流れる妙正寺川を渡った所に江古田古戦場跡の石碑が建てられている。

鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏が戦った享徳の乱 (1454 ~ 82年) で関東一帯の豪族が二つに分かれて戦っていた。

この局所戦として、1477年 (文明9年) に太田道灌 (関東管領上杉氏側) と豊島泰経 (鎌倉公方足利成氏側) の間で合戦が行われた。戦場は現在の哲学堂公園から野方六丁目にいたる新青梅街道沿いの一帯に及んだ。

合戦は太田道灌の勝利となり、この地域は豊島氏にかわって、太田氏が治める事になった。


整地碑、開都五百年記念碑

江古田公園沿い北に通る新青梅街道に出て、すぐ西の妙正寺川支流の江古田川を渡った左手に整地碑が置かれていたのだが、現在ではは、民俗資料館の山崎庭園に移設されている。1923年 (大正12年) の関東大震災以後、東京中央部から郊外へ人が流入した事もあり、東京は拡張し、その対策が急務だった。現在の中野区にも多くの人が流入し、1932年 (昭和7年) に中野区が東京市に編入されたことを契機に、江古田土地区画整理組合が結成され、1934年 (昭和9年) から7年9か月をかけて、住宅地造成の区画整理事業が実施され、周辺の水田や茶畑は急速に住宅地に変わっていった。



小字 南原 (みなみはら)

小字 北原の南が小字 南原で、この地域も昔は片山村の南地域だった。1884年 (明治17年) に片山村全体が江古田村に吸収され、小字名はそのまま残っていた。1932年 (昭和7年)に中野区が誕生した際に旧片山村は、小字の東本村と東和田と共に江古田一丁目となっている。その後、1964年 (昭和39年) の住居表示実施の際に、かつての片山村の台地が松林だったことから、松が丘という町名へと変わり、小字 南原は松が丘二丁目となっている。


松ヶ丘地蔵堂、庚申塔 (23番)、鼓ヶ原子育地蔵 (23番)

小字 南原の旧上高田村との境界線程に地蔵堂があり、その堂宇内に三基の石仏が置かれている。石仏は般若心経が書かれた布で覆われて、全体が見えないのだが、向かって、資料にそって左から見ていくと、


訪問を終えた後、訪問記の編集を行ったが、江古田村に関してまとまった資料がなく、色々な資料を参照しながら、かなり時間を費やした。


江古田村訪問ログ


参考文献