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一号館一○一教室

ライヒ作曲『シックスマリンバズ・カウンターポイント』

2026.06.22 12:22

がいためふちじょん――
その「音」が意味するのは?


810時限目◎音楽



堀間ロクなな


 こんな「音」と出会ったのは初めてだった。いや、そもそもこんな「音」が存在すること自体知らなかった……。



 今年(2026年)は「反復音楽」で有名なアメリカの現役作曲家、スティーヴ・ライヒの生誕90年ということで、6月20日に「彩の国さいたま芸術劇場」で催されたメモリアル・コンサートへ足を運んだ。パーカッショニストの加藤訓子と音楽家たちの「2×4×6」公演と題するもので、16時開演とされていたところ、30分ほど前に着いてみると、エントランスホールではすでに6人の奏者が『木片のための音楽』(1973年)を打ち鳴らし、来場者はそれを取り巻いて思い思いに肩を揺らしていた。第一部・第二部のステージでは約2時間にわたって多様な編成の5曲が披露されたのち、最後に出演者と客席がいっしょになって拍手だけを用いたパフォーマンスで結ばれたから、つまりは時間・空間の枠組みを脱臼させたコンサートが目論まれたのだろう。



 そうしたなかで、ひときわわたしの度肝を抜いたのが『シックスマリンバズ・カウンターポイント』(1986年/2010年)だった。タイトルのとおり、加藤訓子をメインとした六台のマリンバによる約17分間の合奏曲なのだが、打楽器の澄み切った音響のアンサンブルがえんえんと繰り返されるうち、やがてその向こうから突拍子もない「音」が立ちのぼってきたのだ。どう説明したらいいのかわからないけれど、わたしの耳には男の野太い声がこんな言葉を口ずさんでいるかのように聞こえたのである。



 「がいためふちじょん」



 この呪文めいた「音」は一体、何を意味するのだろう? どこにも現実の人間の声がないのに、人間の声がうたっているとしか思えない「音」。マリンバの合奏がみずからの音響とはまったく異なる、そんな別次元の「音」を届けてきたのだ。それも繰り返し、繰り返し、執拗なまでに――。



 「と言つても決して、兇暴な発作などを起すといふわけではありません。その反対です。何か物事に感激し、奮ひ立たうとすると、どこからとも無く、幽かに、トカトントンとあの金槌の音が聞えて来て、とたんに私はきよろりとなり、眼前の風景がまるでもう一変してしまつて、映写がふつと中絶してあとにはただ純白のスクリンだけが残り、それをまじまじと眺めてゐるやうな、何ともはかない、ばからしい気持になるのです」



 無頼派の作家、太宰治は戦後間もなく発表した『トカトントン』(1947年)で、復員兵の若い男にこんな幻聴の体験を語らせている。いまの若い世代にはぴんとこないだろうが、映写が中絶して純白のスクリンが残るとは、かつて場末の映画館ではしばしば古い映画の上映中にフイルムがぷつんと切れて映像が掻き消えたという事態を指したもので、その瞬間の「私はきよろりとなり」があのときマリンバ合奏のさなかに味わった感覚に近い気がするのだ。およそ意味不明の「がいためふちじょん」は、わたしにとっての「トカトントン」だったのかもしれない。



 あんまりミステリアスだったので、コンサートの終了後、加藤訓子のアルバム『クニコ・プレイズ・ライヒ』(2011年)を買い求めてサイン会に参加し、本人に直接、人間の言葉のような「音」が聞こえたことについて訊ねてみた。すると、こちらの目をまっすぐ見返して答えが返ってきた。



 「聞こえましたか! はい、マリンバにはそんな『音』が出せるんですよ。とくに6人もの生演奏だからよく聞こえたかもしれませんね」



 やはり空耳ではなかった。どうやら、われわれがふだん耳にする当たり前の音の世界の背後に、まったく別の「音」の世界が存在しているらしい。その「音」は必ずしも美しくなく、心地よいものでなくとも、現実の音に仄かな隈取りを与えて、いっそう人生の摩訶不思議な深淵へと誘っていく調べなのだ。ライヒの作品はそんなふたつの世界の境界を乗り越えて、自在に往還してみせるものであり、アフリカに起源を持つというマリンバはたんに楽器というよりもそのための装置なのだろう。わたしは一度知ってしまった以上、太宰治が描いた愚痴っぽい主人公と同様、これからも折に触れて「がいためふちじょん」が耳によみがえってくる予感がしている。