金沢と東京で驚いた場所
東京国立博物館平成館で開催されてきた『特別展「百万石!加賀前田家』は、今月の7日、お蔭様で盛況のうちに閉幕した。前田育徳会として入場者数の目標を設定したわけではないが、私は個人的には、他の展覧会の例からして15万人ほどの方に来場して頂ければ有り難いと思ってきたところ、20万人を超える方々にお運び頂いた。誠にありがたいことと深く感謝している。これには、NHKの「日曜美術館」での良いタイミングの紹介や大河ドラマ「豊臣兄弟」における利家公とお松の方の活躍などから、多くの方々に関心を寄せて頂いたこともあずかって力があったと思っており、私ども前田育徳会とともに主催して頂いた東京国立博物館、NHK、NHKプロモーション、読売新聞社のご尽力と協賛頂いた関係各社のお力添えに厚く御礼申し上げる。
この特別展の閉幕と時期を合わせるようにして、5日6日7日と金沢で百万石祭りが行われ、多くの観光客で賑わった。石川県人会も、鎌倉からのお客様を含めて約30名で参加し、前田利宜名誉会長が衣冠束帯姿で臨まれた6日午前の封国祭では一同拝殿に上って参拝し、晴天で時に風も吹き抜けた午後の百万石行列は、桟敷で楽しんだ。「豊臣兄弟」で前田利家公とお松の方を演じている大東駿介さんと菅井友香さんは、ドラマの役柄そのままに行列の中心人物となって祭りを盛り上げられた。
このように5月から6月初めにかけて、行事が多く、また、いろいろな仕事もたてこんでいたので、それらをこなすべく、私は金沢と東京を動きまわり、街の雰囲気にひたった。こうするうちに、半世紀以上前に、金沢の街と東京の街の中で、驚きとともに強烈な思いを抱いた場所のことが脳内によみがえった。
金沢では、下主馬町である。小学校低学年の頃。小松に住んでいた私が曾祖母に連れられて実父がいた当時の下主馬町の家に向った。北陸鉄道の路面電車2番を片町で降りて、竪町の通りに入り、ドンドン歩いて行くのだが、その道の長さにくたびれつつ、めまいがするような気持ちになってしまった。南北と東西のはっきりした道路で町ができている小松に育った私は、子供ながらに自分は今どちらの方向を向いており、町のどのあたりにいるかをいつも意識してきた。しかし、金沢のこのあたりは、歩いている道が南北方向か東西方向か、はたまた、電車通りからどれほど離れたどの辺なのか、さっぱりわからなくなったのである。小松しか知らない私は、金沢の町とはこんなものかと驚いた。このような町の姿が、金沢に言い知れぬ奥深さを与え、独特の雰囲気をかもし出していることを認識したのは、ずっと後になってからだった。
東京では、北品川である。大学に入学して東京に出てきた直後のこと。たまたま京浜急行に乗って、品川を発車した電車が次に止まった駅で窓の外を見て驚いた。駅は北品川だった。そもそも、京浜急行は品川から南に向かって走っているはずだ。その品川の南隣の駅が北品川とは。一瞬、乗り間違えたと思った。当時は、京浜急行が地下鉄と繋がってはいなかった。方向を間違えることはないはずだ。あれこれ頭をひねっているうちに電車は北品川から新馬場、青物横丁へと走り、私は間違った電車に乗ったのではないことをどうにか認識した。当時も今も、品川駅は、品川にあるわけではない。この駅は、品川区内ではなく港区にある。本来、品川駅は、かつての品川宿の近辺につくる予定だったはずだが、住民の方々の意向によって、昔の品川宿の北側の現在の北品川駅の場所よりもさらに北に離れた位置に造られた。それなら、駅名は品川ではなくて別名にすればよいようだが、やはり、東京の南の入り口たる駅の名前は品川とするのが分かりやすかったのであろう。かくして、かつての私のような東京を知らない人は、京浜急行に乗って驚く仕儀となるのである。
東京での今一つは、四谷である。四谷は、JRの中央線と地下鉄の丸の内線が交わっている。東京に慣れていない学生の私は、やはり東西南北の方向感覚に頼って乗り物を乗り継いでいた。そんな時のこと。銀座から千駄ヶ谷へ行こうとして、地下鉄丸の内線から当時の国電の中央線に乗り替えた。乗った電車は、次は当然信濃町に行くと思っていたら着いた駅は市ヶ谷だった。これは、四谷での両線の交わり方の問題であった。銀座から千駄ヶ谷へは、さらに大きく言えば、東京駅から新宿駅へは、基本、東から西への移動であるが、国電と地下鉄は、相互に逆のS字カーブを描き、四谷近辺では、いずれも南北方向に走って交差している。当然ながら、この交差は交わり方が直角ではなく、南北に縦長のX型になっている。新宿方面へ行くには、中央線は北から南へ、丸の内線は南から北に走るのである。そこで、銀座から新宿行きの丸の内線に乗って四谷で降り、方向感覚頼りの私は、同じ方向に行く電車に乗ればよかろうと思って国電中央線に乗ったら、市ヶ谷に行ってしまったのだった。
かくして、東京は極めて複雑な路線の街であることを認識した。このように東京で驚いた地点は、いずれも軌道電車がらみの場所だから、あれから60年たった今も基本構造は全く変わっていない。70年以上前に小学生の私がめまいを覚えた金沢の方は、片町のスクランブル交差点から下主馬町の近くを通って広い道路が造られ、地名も幸町か菊川に変わった。世の中に変わるものと変わらないものがあるのをしみじみ認識させられたのである。(2026年6月17日記)