外の世界の観音
だいぶ前の話しです。
観音さまのマントラに救われたので、近くの観音さまを調べてお参りに行きました。
すると、そのお寺で、観音は33のあらゆる姿になり、この世に権現し、私たちを救済するとありました。
そのお姿の像は恐ろしい怖い顔のものから、一般的な観音像の涼しげなお顔のものまで、様々でした。
私はこの意味は何だろうと思っていて、 はじめに降りてきたのが、 この地上では、完璧な姿では存在出来ないので、能力を分散して、存在することを表しているのかと思いました。
たぶんそれも間違いではないんでしょうけれど、「観音」と「救済」という意味では、もう少し何か腑に落ちる答えが見つかるのではないかとずっと自分の中を探ってきたのです。
私たちは自分の持つものを外部に投影して生きていると言います。
私の持っているものが、外部に反映されているならば、その見えているものを観音が顕現しているものと捉えると、受け入れやすいのかもしれません。
私は覚醒が始まってから、お腹をずっと壊していて、それは要するに、受け入れたくないという抵抗もあったと思います。
私は外部を受け入れてると思い込んでいましたが、本当は受け入れたくなかったということが、体の反応として顕著に出たと思います。
また、今まで黙って飲んできたことも多く、体に不要なものの蓄積もあり、それも満杯状況だったものが関を切って流れ始めたのもあったと思います。
そこから自分の内部の声を聞くという、観音を始めたわけですが、 外部の顕現も観音と捉えると、 見えているものも、自分の声を気付かせてくれる、自分の声のどの部分を聞きたくて、これを見ているのか、と捉えることができるんですね。
「もう限界」「もう嫌だ」 という声かもしれない。
「私は幸せになっていい」 という声かもしれない。
その人の器によって観音は変化すると言われてることから、まさに、今の自分の声を聞くことが、「観音」だと思います。
要するに、「その人が今、何を受け取れる状態であるか。」です。
その、今の自分の声をどれだけ受け入れることが出来るかは、何者でもない自分にどれだけなれるかだと思いますが、なかなか難しいことですね。
矛盾するようで、受け入れることは、手放すことにも繋がります。
受け入れることは、 握りしめることではないと思います。
むしろ逆です。
受け入れた時、 ようやく手放せるものがあります。
観音はどこか遠い世界にいる存在ではなく、 自分自身を受け入れるための働きとして、 私たちの内側にいるのだと思っています。
そして時には、 外の世界の出来事や人の姿を借りながら、 今の私に必要な声を届けてくれているのかもしれません。
それは時に、悪魔に近い姿かもしれません。
観音は三十三のあらゆる姿となりながら。
変わっているのは観音ではなく、 その時々の私たちの器に合わせて次元を変えるように。 それはすなわち、自身の化身なのかもしれないと思ったりします。