神も鬼も愛のかたち
「人 生まる時 天より神と鬼を授けて 魂魄となす」 ― ホツマツタヱ
この言葉を読んだ時、衝撃を受けました。
確かに。そうかもしれない。でも、認めたくない。でもそうかもしれない。と。
私たちは神と鬼を、善と悪のように捉えがちです。
私は最近、鬼とは「守る力」なのではないかと思うようになりました。
昔話の物語の中の鬼は人を襲い、食い、略奪をし、人々の安全を脅かす存在として描かれます。
私たちの中にある、怒り。 恐れ。 嫉妬。 執着。
私たちはそれらを良くないものとして扱うことがあります。
けれど、その根を辿ると、 傷つきたくない。 失いたくない。 生きたい。 守りたい。
そんな願いが隠れていることがあります。
私たちの中の鬼とは、そういうことではないかな?と思うのです。
それは、何かを守ろうとする力。
そう考えると、少し見え方が変わります。
私は、鬼滅の刃 の鬼たちを思い出しました。 あの物語に登場する鬼たちは、単純な悪役ではありません。 それぞれに悲しい過去がありました。 大切な人を失った悲しみ。 叶えられなかった夢。 認められたかった思い。 生きたいという強い願い。
その苦しみが積み重なり、鬼となってしまった存在が多く描かれています。
もちろん、人を傷つける行為は許されるものではありません。
けれど物語は、 「なぜ鬼になったのか」 を描いています。
だから私たちは鬼が倒される場面でさえ、どこか切なさを感じるのでしょう。
鬼の奥にあるもの 鬼になった理由を見つめると、 その奥には愛があります。
愛されたかった。 守りたかった。 失いたくなかった。 生きたかった。
本来は誰もが持っている自然な願いです。
しかし苦しみや恐れによって、 その願いが歪んだ形で現れることがあります。
怒りになり、 執着になり、 支配になり、 破壊になってしまう。
だから鬼とは、 愛の反対ではなく、 愛が苦しみによって歪んだ姿とも言えるのかもしれません。
私は、昔、このブログでそれを「腐った愛」と表現していました。
一方で神とは、 つながろうとする力。 愛そうとする力。 育てようとする力。 信じようとする力。
鬼が守る力だとするなら、 神はつながる力です。
どちらも命に備わった大切な働きです。
つながるだけでは、自分を守れなくなることがある。
守るだけでは、孤立してしまい、何も生まない。
だから私たちは、その両方を持って生まれてくるのでしょう。
よくスピリチュアル界隈で言われている、その中庸を行くというのは、そんなイメージを持つとわかりやすいのかと思います。
深く辿ると根は同じであって、中心にあるのは、 一つの命。 一つの愛。 そこから外側へ広がると、 神にも見える。 鬼にも見える。
優しさにもなる。 怒りにもなる。 受容にもなる。 拒絶にもなる。
けれど深く辿っていくと、 根は同じところにつながっている。
まるで一本の大樹のように。
枝葉は無数に分かれていても、 根は一つです。
鬼を消すのではなく スピリチュアルの世界では、 怒りを手放そう。 恐れを手放そう。 と言われることがあります。 それも大切なことです。
けれど私は最近、 鬼を消そうとするのではなく、 鬼の声を聞いてみることも大切なのではないかと思っています。 「あなたは何を守ろうとしているの?」 そう問いかけてみる。
すると、 傷つきたくなかった。 愛されたかった。 認められたかった。 大切なものを守りたかった。 そんな声が聞こえてくることがあります。
結果、それが手放しにつながったりするものです。
ホツマツタヱが語るように、 私たちは神と鬼の両方を持って生まれてくるのかもしれません。
神は愛する力。 鬼は守る力。 どちらも命を生かそうとする働きです。
そして深く辿れば、 その根には同じ愛が流れている。
鬼を否定することでもなく、 神だけになろうとすることでもなく、 その両方を抱きしめながら生きること。
それこそが、 自分自身の魂を理解していく旅なのではないでしょうか。
中心にあるのは、一つの命、一つの愛。
神も鬼も、その愛が見せるさまざまな表情なのかもしれませんね。
それは、前のブログに書いた観音でもあると思っています。