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Fashion Source / Hitomi’s Log

北斎&広重展:世界の北斎を、私はまだ知らなかった。

2026.06.24 22:00

すみだ北斎美術館で開催中の「北斎と広重 冨嶽三十六景展」へ行ってきた。北斎生誕の地に建つ美術館である。

実は私にとって、浮世絵をきちんと見るのはほぼ初めてだった。

きっかけは、少し前に見た村上隆さんの作品だった。村上作品の背景に日本画や浮世絵があることを知り、興味が湧いていたところ。ちょうど私はEtsyショップで北斎の《赤富士》や《The Great Wave》をモチーフにしたデザインを作っていた。そんな流れで、北斎と広重の富士を見に行くことにした。

ところが、最初の驚きは富士山ではなかった。


浮世絵は、「絵画」じゃなかった

村上隆さんの解説を聞くまで、私はずっと、浮世絵を日本画の一種だと思っていた。

しかし実際には、浮世絵は版画だった。絵師が描き、彫師が彫り、摺師が刷る。そして大量に印刷され、町で販売される。現代で言えば、ポスターであり雑誌であり、メディアだった。

そう考えると、北斎や広重は単なる画家ではない。コンテンツクリエイターだったのだ。


北斎漫画は、漫画のご先祖様だった

さらに驚いたのが『北斎漫画』。私は名前しか知らなかった。

展示で実物を見ると、そこには風景だけでなく、人の動きや踊り方、職人の仕事、動物、妖怪、日常のあらゆるものが描かれていた。文字は少なく、ほとんど絵だけで構成されている。ページをめくる感覚は、まるで漫画雑誌だった。ある踊りの動きを連続で描いたページは、今で言うパラパラ漫画のようにも見える。

ゴッホやモネたちが活躍していた同じ時代、日本ではこうした絵の冊子が大量に刷られ、人々が楽しんでいたのだ。日本の漫画文化は、突然生まれたものではない。もっとずっと前から、その種があったのだ。


そして面白いことに、こうした浮世絵や絵本は後に海を渡ることになる。

開国後、日本から輸出された陶器や工芸品の梱包材として、浮世絵が使われていたと言われている。今で言えば新聞紙や緩衝材のようなものだ。

ところが、それを見たヨーロッパの人々が驚いた。

「なんだ、この絵は?」

大胆な構図。切り取られた視点。平面的な表現。

日本では包み紙だったものが、ヨーロッパでは新しい芸術として発見されたのである。

後にゴッホやモネたちが浮世絵に夢中になるジャポニスムの流れは、そんな意外な出会いから始まったとも言われている。


隅田川は、体育の時間に川沿いを走った

常設展示も興味深かった。その中に『隅田川両岸一覧』があった。隅田川沿いの暮らしを描いた長い絵巻である。実は江戸時代、隅田川には橋がたった5本しか架かっていなかったらしい。幕府が防衛上の理由で架橋を制限していたからだ。つまり北斎は、当時あった橋をまるごと5本とも描いていたことになる。今のように30本近い橋が並ぶ景色ではなく、橋そのものが特別な存在だった時代の隅田川なのだ。

それを見ながら、不思議な気持ちになった。私は中学校時代を、両国橋と新大橋の間にある中学校で過ごした。体育の時間は、隅田川沿いを走るのが定番のランニングコースだった。さらに、うちの中学校の校歌は、出だしが「隅田川のきらめく流れ」を歌う一節から始まる。つまり私は、北斎が描いた風景のすぐ近くで、走り、歌い、育っていたのだ。

世界的巨匠の北斎。その北斎が描いた隅田川が、私にとっては、バスの道からいつも眺めていた川だった。

同じ川を見て、同じ橋の下を走っていたのかもしれないと思うと、急に北斎が遠い偉人ではなくなる。


北斎のアトリエは、おじさんの仕事場だった

展示室には北斎のアトリエも再現されていた。これがまた意外だった。

狭い。紙が散らばっている。畳の上で、普通に絵を描いている。世界の北斎というより、職人おじさんである。しかも時々動く。ときどき加減が怖い。

考えてみれば、当時の浮世絵師はそもそも「芸術家」ではなく「町絵師」、つまり職人だった。版元が彫師・摺師を抱えて大量に刷り、儲けの大半を取る仕組みで、絵師にロイヤリティという発想もない。どれだけ評判になっても、暮らしは職人のままなのである。巨匠なのに質素。その理由は、案外こんな構造にあったのかもしれない。

あのアトリエを見ていると、歴史上の人物というより、一人の職人としての北斎が立ち上がってくる。


二枚の赤富士、晴れと雨

そして肝心の富士山である。

北斎の富士は、どこか思想的だった。富士山をただの山として描いているのではなく、波、風、雷、空の色、遠近法、構図の実験の中に置いている。

《凱風快晴》、いわゆる赤富士も印象的だった。私はずっと、似たような赤富士が二枚ある理由を知らなかった。けれど展示で見て、ようやく分かった。一枚は晴れ、もう一枚は雨。晴れの日の富士は朝日に染まり、静かにそこにある。雨の日の富士には稲妻が走り、空気が一変する。同じ富士山なのに、まったく違う表情になる。

私はEtsyショップで赤富士を使ったバッグを作っているのだけれど、無意識に選んでいたのは晴れの日の赤富士だった。今の自分には、それでよかったのだと思う。


北斎と広重、二人の富士

一方の広重は、もっと暮らしの中に富士がいる。桜が咲き、人が歩き、旅人がいて、橋があり、町がある。日常の向こうに富士が見える。

展示を見ながら、だんだん二人の違いが見えてきた。北斎は富士そのものを見ている。富士を中心に、波も雷も空も構図も動いている。富士は自然現象の中に立つ、巨大な存在だ。一方、広重は富士のある風景を見ている。人の暮らしがあり、季節があり、土地があり、その奥に富士がある。

面白いのは、二人が37歳違いでありながら、同じ富士山を描いていることだ。広重は北斎の影響を受けていたのだろう。けれど、ただ真似たわけではない。北斎が自然の力としての富士を描いたなら、広重は人の暮らしの中にある富士を描いた。同じ山を見ていても、見えているものは違う。

こちらは、広重作品で印象に残ったもの。富士山の代わりに作られたミニチュア富士に、本物の富士山を借景させて描いた絵。江戸の人たちの富士愛を感じさせる。


展示を見終わる頃には、なんとなくわかるようになっていた。これは北斎だな、これは広重だな。そんな見分け方が、少しだけできるようになった。そして、どの絵も、以前観たときより、見どころを掴み始めた気がしている。


富士山は、江戸の人たちの憧れだった

展示を見ながら、そもそもなぜ二人ともこんなに富士山を描いたのだろうと思った。けれど会場を進むうちに、それが単なる風景画の題材ではなかったことが分かってくる。

当時の江戸の人々にとって、富士山は信仰であり、憧れであり、縁起のよい存在だった。江戸の町から富士山が見えた時代。富士講という信仰の集まりがあり、富士山へ参詣する人たちがいた。つまり北斎も広重も、ただ山を描いていたわけではない。江戸の人たちが見上げていた「特別なもの」を描いていたのだ。

そう思うと、富士山の見え方が変わる。名所でもあり、信仰でもあり、憧れでもあり、日常でもある。日本人がなぜこんなにも富士山に惹かれるのか、その原型のようなものを見た気がした。


世界の北斎が、下町の職人になった日

今回の展示は、富士山を見る展覧会というより、「日本は何を見ていたのか」を知る展覧会だった気がする。

北斎は、富士の中に自然の力と構図の実験を見ていた。広重は、富士の中に旅と季節と人の暮らしを見ていた。江戸の人々は、富士の中に信仰と憧れを見ていた。そして私は、富士や隅田川や橋の中に、自分が育った景色を見ていた。

実際、北斎は、大きなたらいの奥に、富士山を見ていた。


世界の北斎。そう思って見に行ったはずなのに、帰る頃には、北斎はどこか下町の職人のように感じられた。畳の上で絵を描き続ける人。紙に囲まれ、仕事場で黙々と手を動かす人。それでも、描いたものは勝手に海を越えていく。

巨匠なのに、職人。

職人なのに、その仕事は海を渡った。

東京下町の一人の絵師が描いた富士山は、やがて世界中の画家たちの目を驚かせることになる。北斎は、まだ知らなかった。