日の丸は何処へ
まずは再掲文から。
「自由と平等は対立関係に有り、民主主義が2つの並立存在の矛盾をぼやかしている。資本主義と自由は親和的関係に有り、法が平等を担保し資本の暴走を抑えている。大国アメリカはそういう国だろうと思っているが、翻って日本はどうだろう。4つの要素は存在しているが、もう一つの重要な概念(概念かな?)が存在している。明治以後の政権はそれを概念化し、実体化し、権力構造に少しずつ具体的な力として組み入れてきた。もしくはそうならざるを得なかったのか。いずれにせよ現在は実体のみは存在するが法体系における力構造は消失している。しかし、その残滓はかすかではあるが、しかし重要な位置を占め現存している。さて、変わりつつある自民はこれを認識しているのか、もしくは、ある時点からそれはもう既に議員の中では引力が弱まってきているのだろうか、どっちだろう。日本が普通の国になる日は近いのだろうか。」
さて、恐らく今国会で成立するだろう国旗損壊罪について少し私見を。慎重に言葉を選ばないと炎上のリスクがあるので(フォロワーひと桁のくせに)、と端からやや及び腰である。
日の丸の向こうに何が思い浮かぶか、と問われると、「何も」、と応える以外に無い。その冷感が既に突っ込まれる元になるやもと、やはりヒヤヒヤだが、爽やかに応対した方が好印象を得られるかもという期待もある。日の丸が、君が代斉唱とセットで表彰式に登場すると、ウルっとくるのは間違いない。これは抗いようがない事実である(抗うつもりはもちろん無いが)。多くの日の丸への国民感情はそういったものであろうと思う。
モノ(言い切ると危ないが)が表象する内容が国民全体への共有に至るには膨大な時間の蓄積と広がりを必要とする、それを脇において事を進めようとすると思ってもいない現象が生じてくる可能性がある。何もしなくともその土地にさえ合えば根は広がり、地中深く伸び、花は咲き、実はつくのである。そして種は次の収穫に繋がり、民の心身を形成していくのである。
国旗損壊罪は江戸の昔の「踏み絵」に精神的な構造がやや似ていると感じている。この「やや」と言うところを察してもらいたい。踏みたくない者に見えていて踏ませたい者には見えていないという踏み絵の表象構造が日の丸を間にすると、罰しようとする者と罰せられる者双方には見えていて、肝心の法を守ってもらいたい一般国民には殆ど見えていないという現実をやや皮肉めいて表してくれる。踏み絵の持つ表象力はその教義とあいまって強烈であったがゆえ、江戸幕府は禁止をし、統制の手段とした。果たして現政権は何を目論んでいるのか、いないのか。不必要な想像はできればしたくない。
令和8年6月28日