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一号館一○一教室

勝 海舟 著『氷川清話』

2026.07.02 02:48

乱世における
大豪傑の条件とは?


813時限目◎本



堀間ロクなな



 勝海舟(麟太郎)は1823年(文政6年)に江戸の貧乏旗本の家に生まれ、持ち前の才覚と負けず嫌いの努力によって崩壊間際の幕閣でたちまち頭角を現した。ペリーの黒船来航を受けて、日米修好通商条約批准のため極東の島国から初めてアメリカ大陸へ「咸臨丸」で訪問したのち、軍艦奉行として日本海軍の基礎を築きあげ、また、戊辰戦争においては陸軍総裁の立場で官軍側と交渉にあたり、江戸城の無血開城を果たして150万の人々を戦火から守ったことはだれしも知るところだろう。



 こうした幕末・維新の大立者が、後世のわれわれにとってひときわありがたい存在なのにはふたつの理由がある。ひとつは、長生きしたこと。勝と同世代のライヴァルの多くが人生の道半ばにして命を落としたなかで、かれは歴史の表舞台で大役を果たしたのちも、伊藤博文ら後続の世代が新国家の建設に取り組むのと着かず離れずの関係を保ちながら75年の生涯をまっとうした。アッパレというべきだろう。理由のもうひとつは、人並外れたおしゃべり好きだったことだ。



 東京・赤坂氷川の地に隠棲した勝が周囲から求められるまま歯に衣着せず語ったおびただしい記録の代表作が『氷川清話』(1898年)だ。このなかで最も注目されるのが敵味方なく多士済々の交流の内幕であり、わけても官軍を率いた西郷隆盛に関するエピソードが白眉なのは当然だろう。



 おれが初めて西郷に会つたのは、兵庫開港延期の談判委員を仰せ付けられるために、おれが召されて京都に入る途中に、大坂の旅館であつた。その時、西郷は御留守居格だつたが、轡(くつわ)の紋の付いた黒縮緬の羽織を着て、なかなか立派な風采だつたヨ。〔中略〕坂本龍馬が、かつておれに、先生しばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者も行つて会ツて来るにより添書をくれといツたから、早速書いてやツたが、その後、坂本が薩摩からかへつて来て言ふには、成程西郷といふ奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらうといつたが、坂本もなかなか鑑識のある奴だヨ。西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。おれの一言を信じて、たつた一人で、江戸城に乗込む。おれだつて事に処して、多少の権謀を用いないこともないが、たゞこの西郷の至誠は、おれをして相欺くに忍びざらしめた。この時に際して、小籌浅略(しょうちゅうせんりゃく)を事とするのはかへつてこの人のために、腹を見すかされるばかりだと思つて、おれも至誠をもつてこれに応じたから、江戸城受渡しも、あの通り立談の間に済んだのサ。



 少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く――とは、音響学でいうダイナミックレンジが極度に広い釣り鐘をイメージすればいいのだろうが、むしろ重要なのはその内実がすっからかんの空洞であることのようだ。そんな西郷と同じ薩摩藩の盟友だった大久保利通を比較して、つぎのように論じてみせる。



 西郷は、今言ふ通り実に漠然たる男だつたが、大久保は、これに反して実に截然(せつぜん)として居たヨ。官軍が江戸城にはいつてから、市中の取締りが甚だ面倒になつて来た。これは幕府は倒れたが、新政が未だ布かれないから、ちやうど無政府の姿になつたのサ。しかるに大量なる西郷は、意外にも、実に意外にも、この難局をおれの肩に投げ掛けておいて、行つてしまつた。どうか、宜しくお頼み申します、後の処置は、勝さんが何とかなさるだらうといつて、江戸を去つてしまつた。この漠然たる「だらう」にはおれも閉口した。実に閉口したヨ。これがもし大久保なら、これはかく、あれはかく、とそれぞれ談判して行くだらうに、さりとはあまり漠然ではないか。しかし考へて見ると、西郷と大久保との優劣は、こゝにあるのだヨ。西郷の天分が極めて高い所以は、実にこゝにあるのだヨ。



 すなわち、西郷のおよそ掴みどころのない「漠然」と大久保の万事揺るがせにしない「截然」を天秤にかけて、西郷のほうに軍配を挙げているのだ。しかし、過ぎたるは及ばざるが如し。極度の「漠然」と極度の「截然」というそれぞれの資質は、結局、維新後10年にして自滅を招くことになった、かたや西南の役の敗軍の将として、かたや刺客のふるった刀で全身を斬り刻まれて……。



 一方で、勝は他ならぬ自分自身についてこんなふうに弁じている。



 維新の頃には、妻子までもおれには不平だつたヨ。広い天下におれに賛成するものは一人もいなかつたけれども――山岡(鉄舟)や(大久保)一翁には、後から少し分つたやうであつたが――おれは常に世の中には道といふものがあると思つて、楽しんで居た。〔中略〕おれなどは、生来人がわるいから、ちやんと世間の相場を踏んで居るヨ。上つた相場も、いつか下る時があるし、下つた相場も、いつか上る時があるものサ。その上り下りの時間も、長くて十年はかゝらないヨ。それだから、自分の相場が下落したと見たら、じつと屈(かが)んで居れば、しばらくすると、また上つて来るものだ。大奸物(だいかんぶつ)大逆人の勝麟太郎も、今では伯爵勝安芳様だからノー。しかし、今はこの通り威張つて居ても、また、しばらくすると耄碌してしまつて、唾(つば)の一つもはきかけてくれる人もないやうになるだらうヨ。世間の相場は、まあこんなものサ。その上り下り十年間の辛抱が出来る人は、すなはち大豪傑だ。おれなども現にその一人だヨ。



 どうやら、この善と悪の基準も定かならぬ乱世にあって、おのれこそが大豪傑の条件を満たしていたと主張したいらしいのである。実際、その鉄面皮ぶりは西郷や大久保も遠く及ばないものだったことは間違いない。