川路聖謨と鹿政談
鹿政談とは
上方落語の演目のひとつに『鹿政談』というのがあります。
噺(はなし)の始まりはこうです。
江戸時代の奈良では、鹿は「春日大社の神様の使い」とされており、鹿を殺したものは死罪というきまりがありました。
ある日の早朝のこと、正直者の豆腐屋が豆腐を作っているときに、店先においていた「きらず(おから)」を食べている犬に気づきます。
それで犬を追い払おうと薪を投げたら、当たり所が悪くて死んでしまいました。
ところが死骸をよく見たら犬ではなく鹿だったから、さあ大変。
お白洲に引き出されたかわいそうな豆腐屋を、なんとか助けてやろうとする奈良奉行と豆腐屋の掛け合いが見どころです。
で、なぜこのような話題を持ちだしたかというと、これが川路聖謨の実話にもとづいているからです。
なお、『鹿政談』についてくわしく知りたい方は、上方落語の人間国宝・故桂米朝師匠の『鹿政談』をご覧ください。
神田伯山先生の講談も面白いです、こちらは歴史的背景や川路の人柄などまでくわしく解説されています。
【講談】神田伯山「鹿政談」in 新宿末廣亭(2021年12月19日口演)
天保の改革失敗で、川路も道連れ左遷
前回『新人佐渡奉行川路聖謨の感化力』では、川路の佐渡奉行時代のエピソードをご紹介しました。
川路は佐渡での風紀改善・経費節減の働きが認められて、天保の改革で有名な老中水野忠邦により、小普請奉行に抜擢されます。
というのも小普請奉行というのは建設工事の責任者であり、昔から業者との癒着がひどい部署だったからです。
川路はここでも辣腕をふるって大幅な経費節減を行ない、喜んだ水野は、川路を今度は土木工事の責任者である普請奉行に昇進させました。
ところが、庶民に質素倹約を押し付けて楽しみをうばった緊縮財政派の水野が失脚し、そのあおりを受けて、普請奉行の川路も格下の奈良奉行に左遷されてしまいます。
(水野に代わって老中首座となった阿部正弘が、ほとぼりが冷めるまで川路を江戸から離したという説もあります)
奈良奉行は京都所司代の指揮下で、主な管理対象は奈良の社寺です。
奈良は歴史が古いだけに社寺の格式も高く、けっこう面倒なポストでした。
川路はここでも手腕を発揮したので人々から名奉行と賞賛されますが、その一つのエピソードが鹿政談という形で伝えられているのです。
奈良公園の鹿(写真AC)
実録鹿政談
では、実際の話はどうだったのでしょうか。
それは川路が奈良に赴任した弘化3年(1846)8月のことでした。
毎年行なっている「鹿の角切り」において、一匹の大鹿を町の若者たちが力ずくで押えつけるときに、誤って殺してしまいました。
さあ、こうなると興福寺の衆僧(当時は神仏習合で、春日大社と興福寺は一体)たちが、黙っていません。
さっそく「鹿を殺した者を死罪にせよ」と、奉行所に訴え出ましたが、川路奉行はこう申し渡しました。
「鹿は、秋の中ごろになれば気が荒くなって人を傷つける。
それ故に、奉行所の許可をえて鹿を捕まえ、その角を切っているのだ。
元来鹿の角を切るということは、鳥の羽を切ったり、人の指を切ったりするのと同じで、傷つけることである。
このように、傷つけるのを許す以上は、誤って殺すこともありうると認めねばならぬ。
興福寺の決まりをもって裁くわけにはいかない」
と、申し立てを却下し、角切りの若者たちを無罪にしました。
落語や講談では川路が考えついたようにしていますが、これは川路の思いつきだけではありません。
佐渡奉行の時に奉行所の旧い規則を調べ尽くしたように、奈良でも昔の事例を確認しています。
そうすると、戦国時代以前には、鹿を殺した者は興福寺の山内を引き回した上で、「石粉つめ(石子詰め)」という生き埋めにする刑があったようですが、江戸時代にはなくなっていました。
興福寺では、山内の神木を伐採した者、寺僧を殺した者、神鹿を殺したものは死罪という決まりがあったものの、鹿を殺して死罪という例は寛永14年(1637)以降ありません。
つまり200年以上途絶えているのです。
時代もすっかり変わっているのに、そんな昔の決まりを適用することはできないというのが川路の判断でした。【川路寛堂『川路聖謨之生涯』による】
興福寺に厳しめの判定を下した川路は、きちんとリカバリーもしています。
それが「川路桜」です。
興福寺や東大寺には桜やカエデの木が多いのですが、川路が赴任したころにはそれらの木々に立ち枯れが目立っていました。
そこで川路が率先して植樹運動を展開し、町の人々から集まった数千本の桜とカエデが両寺の境内に植えられたのです。
それらの木々は大きく育ち、「川路桜」と呼ばれて、いまでも奈良の景観をいろどっています。
【参考:『木々植えた名奉行の思い継いで 古きを歩けば・花ものがたり 川路桜(奈良市)』】
原典に当たる
佐渡でも奈良でも、川路は新しい赴任地では、必ずそこにある過去の記録類を調べてから、仕事に着手していました。
私も銀行員時代にある部署に配属された時、先輩から同じようなことを言われたおぼえがあります。
銀行というのは、とにかく記録を残す社会です。
したがって、取引先ごとにたくさんのファイルが保管されています。
まずはそれを読み込んで、歴史的な経緯を知るのが仕事の第一歩だと教えられました。
それが終わるまでは取引先から何か言われても即答せずに、「戻って確認した上で、改めてご返事させていただきます」と答えて、上司や先輩に相談した上で返事するようにと釘を刺されました。
また、調べ物でも二次資料で済まさず、必ず原典にあたれと指導されました。
法律であれば、条文の確認だけでなく、なぜその法律が必要だったのかという「立法趣旨」まで調べろとも言われました。
結果として、連日夜10時過ぎまで残業してファイルと格闘です。
現在ならブラック企業と言われそうですが、当時はそれが当り前でした。
おかげで、今でも調べものは必ず原典に当たるという習慣がついています。
昨今はAIで効率的に仕事を進めることが重視されていますが、先だってAIに、ある人物評がどこに書かれているのかをたずねた時には、存在しない本や実在の本でも全く関係ない部分を紹介されて、困惑しました。
私の質問の仕方が下手なのかと思いつつ、目下は実力相応のアナログな史料探しを続けています。